ホルシュタインの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 15:12 UTC 版)
オーストリアから離れた飛び地であるホルシュタインのキールに本営を置いていたオーストリア軍のガブレンツ将軍は、歩兵1個旅団と龍騎兵1個連隊の合計約4,000人、ホルシュタイン官吏を率い、アウグステンブルク公を伴ってキールからハンブルク付近のハンブルク=アルトナへ撤退した。シュレースヴィヒに駐屯していたプロイセン軍のマントイフェル将軍は、歩兵2個旅団、騎兵1個旅団の合計約12,000人を率いてアイダー川を渡河して南下・侵攻し、ホルシュタインのキール、レンツブルク、イツェホーの諸都市を占領した。 11日、イツェホー市では地主会を解散させ、会議場を閉鎖して、守兵に門を守らせた。12日夜、プロイセン軍の優勢を察したガブレンツ将軍はハンブルク=アルトナを離れ、鉄道でハノーファー、カッセル、フランクフルトを経てボヘミア方面の主力へ合流した。無血のままシュレースヴィヒからオーストリア軍を追い払ったマントイフェル将軍のプロイセン軍(歩兵12個大隊、騎兵8個大隊、砲兵6個大隊)は、進退の自由を得たため、西部ドイツ戦線への投入が可能となった。一方、ガブレンツ将軍のオーストリア軍(歩兵5個大隊、騎兵2個大隊、砲兵1個大隊)は本国兵力に合流することに成功したが、友邦のドイツ諸邦への援護が不可能となった。 結局、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州はプロイセンの支配地となり、新たに州総督にフォン・シールブレッセンが任命された。
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