「王国の三分の一公国」あるいは「ニトラ公国」か?(11世紀)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 07:12 UTC 版)
「スロバキアの歴史」の記事における「「王国の三分の一公国」あるいは「ニトラ公国」か?(11世紀)」の解説
詳細は「en:Principality of Nitra」および「ro:Tercia pars regni」を参照 のちのハンガリー王国の発展はガラム川(英語版)(スロヴァキア語名フロン川(英語版))の西、現在のスロバキアの領土にまで版図を拡大したゲーザ公の治世(972年以前-997年)の間に始まった。彼は972年に洗礼を受けたものの、彼は確信してキリスト教徒になったわけではなかった。997年に後を継ぐ彼の息子イシュトヴァーン1世とは対照的にである。史家の中には、イシュトヴァーン1世は、バイエルン公女ギーゼラとの結婚の後に父から扶持としてニトラ公国を賜ったと主張している。ゲーザ大公が薨去したとき、アールパード朝の王族の一人で異教徒のコッパーニュが継承権を主張したが、イシュトヴァーンは妃ギーゼラのドイツ人の家来の支援によってこれを打倒した。スロバキア民謡のひとつは「イシュトヴァーン王(Štefan kral)はビナの辺りではスロバキアの戦士の援けによって異教の敵を倒すことができたのだ」と歌っている。この勝利の後、イシュトヴァーンは、ローマ教皇シルウェステス2世 から王冠を受け、1000年か1001年に彼は初代ハンガリー国王イシュトヴァーン1世として戴冠したのである。 ハンガリー王国はかつての大モラヴィア王国の国家組織の要素を統合した。他方、歴史家たちはこのことに対してコンセンサスをとるに至っていない。王国内の「統治の基礎単位 (vármegye)」の構成はブルガリア帝国やドイツ、モラヴィアなど外国のものを踏襲したのか、ハンガリー内部の刷新なのかはいまだに議論されているのはその一例である。 イシュトヴァーン1世(在位1000/1001年-1038年)がハンガリー王国に設置した城県のうち、は少なくとも8つの城県("vármegye")が現在のスロバキアの領土に含まれている。すなわち、アバウーイ(Abaúj / Abov)、ボルショド (Boršod)、エステルゴム、ホント(Hont)、コマールノ(コマーロム)、ニトラ、バルシュ(Bars / Tekov)およびゼンプレーン(Zemplén / Zemplín)はおそらく彼によって設置された。現在のスロバキアの領土の北部、北東部のほとんど人が住んでいなかった領域は王の私有林となった。 イシュトヴァーン1世はまた、複数の教区を王国内に設置した。11世紀には、現在のスロバキアの領土は、エステルゴム大司教区 (1000年ごろ設置)とその下のエゲル教区(1006年–1009年に設置)に分割されていた。 1003年ごろか1015年ごろ、ポーランド王国のボレスワフ1世は、現在のスロバキアの領土である、モラヴァ川以東の土地を獲得した。しかしイシュトヴァーン1世は1018年にこれら領地を奪還した。 イシュトヴァーン1世が崩ずると、王国は王冠をめぐる国内の紛争に巻き込まれた。そして神聖ローマ皇帝のハインリヒ3世もまた、闘争に介入した。1042年にハインリヒ3世は今日のスロバキアの一部であるフロン川(ハンガリー語名ガラム川)以東を獲得し、それらをイシュトヴァーン1世のいとこのベーラ1世に与えた。しかし皇帝の軍が撤退したのち、アバ・シャームエル王の軍がこれらを奪還した。 1048年に国王アンドラーシュ1世は「王国の三分の一 (Tercia pars regni)」 を彼の兄弟のベーラ公に譲渡した。公国の領域はニトラ(Nyitra / Nitra)とビハル (現在はルーマニア領。ルーマニア語ではビホル)を中心としていた。以後60年もの間、「王国の三分の一公国」はアールパード王家の王族(ゲーザ公(のちのハンガリー王ゲーザ1世)、ラースロー公(のちのハンガリー王ラースロー1世)、ランペルト公およびアールモシュ公)によって王国とは別個に統治されてきた公は王の優位を容認した。しかし彼らの中(ベーラ、ゲーザ、アールモシュ)には神聖ローマ帝国やボヘミア王国のような隣国の統治者と同盟と王冠を得るために、王に対して反乱を起こす者もいた。「王国の三分の一公国」の歴史は1107年に終わりを告げた。このとき「文人王」カールマーンが、弟であるアールモシュ公の聖地巡礼の留守に乗じて、その領地を占領したのである。アールモシュ公は王国に帰還した時に、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の軍事的支援によって旧領の回復を図ったが、失敗し「現状(status quo)」が課せられ、三分の一公国の王領への併合による消滅が確定した。
※この「「王国の三分の一公国」あるいは「ニトラ公国」か?(11世紀)」の解説は、「スロバキアの歴史」の解説の一部です。
「「王国の三分の一公国」あるいは「ニトラ公国」か?(11世紀)」を含む「スロバキアの歴史」の記事については、「スロバキアの歴史」の概要を参照ください。
- 「王国の三分の一公国」あるいは「ニトラ公国」か?のページへのリンク