「王国」の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/08 03:58 UTC 版)
紀元前5世紀に入ると、クリミア半島東部の諸ポリスはシュンマキアと呼ばれる同盟を結び、スキタイ人との戦いに備えた。このシュンマキアの中心となっていたのが、パンティカパイオンというポリスであった。 ディオドロスによると、クリミア半島東部では紀元前480年頃から、名門貴族であったアルカイアナクス家が権力を握っていた。しかし紀元前438年頃、トラキア出身と考えられているスパルトコス(スパルタコス)がパンティカパイオンでアルコン(執政官)に就任して主導権を握り、以後彼の子孫が「王朝」を築いた。これをスパルトコス朝と呼び、統一勢力としてのボスポロス王国の原型となった。 この王国の主導権をまず握ったのはギリシア人達であったが、その人口は現地人に対して寡少であったと考えられ、当初よりギリシア人と周辺の諸集団との関係をどう位置づけるかは重大問題であった。ギリシア人植民市の周辺にはシンドイ人、マイオタイ人、ダンダリオイ人などが居住していた。彼らは農耕を営む集団であったが、ギリシア人との社会的相違は激しく、ギリシア文化が普及してもなお一元的な統治体制の下に置くことは困難であった。 スパルトコスは権力を握ると、パンティカパイオンのアルコンと言う称号とは別に「シンドイとマイオタイの王」を名乗った。集団毎に異なる称号を用いたこの事実は、ギリシア式の権力理念が現地人に適合しなかったことを端的に示す。 スパルトコスの死後に王位に就いたサテュロス1世は、ペロポネソス戦争末期に、アテネの支配下にあったとされるニュンファイオンというポリスを手中におさめた。さらに領土拡張を狙うも、紀元前393年にサテュロスはテオドシアとの抗争で戦死した。その後、跡を継いだレウコン1世などの王によってボスポロス王国の支配領域は拡大され、紀元前4世紀末には黒海北岸の殆どをその勢力範囲に収めた。
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