イタリア王国の成立と国王暗殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 03:01 UTC 版)
「モンツァ」の記事における「イタリア王国の成立と国王暗殺事件」の解説
1861年、イタリア王国の成立が宣言された際、モンツァの人口は2万5000人ほどであった。1862年には独立戦争の英雄ジュゼッペ・ガリバルディがこの町を訪れている。のちにガリバルディが没すると、モンツァの人々は英雄を記念する像の建立を決定し、エルネスト・バッツァーロ (it:Ernesto Bazzaro) によって像が制作された。 1868年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、鉄王冠にちなむイタリア王冠勲章 (it:Ordine della Corona d'Italia) を創設した。1870年には市立図書館が開設された。1891年8月22日、国王の巨額の下賜金をもとに病院が開設された。 1895年12月31日の時点で、モンツァには約3万7500人の住民がいた。郊外では小麦やトウモロコシ、飼料、ジャガイモ、オート麦、ライ麦、野菜が生産されていた。また、特徴のある産業としてはブリアンツァ地方の製糸業を支える養蚕業があった。 1900年7月29日には、国王ウンベルト1世の暗殺事件がモンツァで発生した。無政府主義者ガエタノ・ブレーシは、7月27日にモンツァに到着した。29日(日曜日)の22時30分、王宮にほど近い公園の近くで、馬車の上に立って群衆に手を振っていた王をブレーシは撃った。ウンベルト1世の後継者ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、事件現場に贖罪礼拝堂 (Cappella Espiatoria) を建設した。
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