イタリア王国の参戦
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「第一次世界大戦」の記事における「イタリア王国の参戦」の解説
5月23日、イタリア王国がオーストリア=ハンガリーに宣戦布告した。1月以降、ドイツはオーストリア=ハンガリーに要請して、トレンティーノなどの割譲に同意してイタリアを少なくとも中立に留まらせようとした。5月4月に三国同盟が解消された後もイタリアへの提案は段々とグレードアップし、10日にはトレンティーノ、イゾンツォ川沿岸の割譲、アルバニア公国における自由行動権などが提案された。一方、イタリアは連合国と交渉して4月26日にロンドン条約を締結した。条約ではイタリアが連合国側で参戦した場合、未回収のイタリアの獲得を約束した。イタリア首相アントニオ・サランドラ(英語版)と外相シドニー・ソンニーノ(英語版)は数か月かけて国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の同意を取り付け、対オーストリア宣戦を決定した。宣戦を支持したのは国民の間でも議会でも多数派ではなかったが、対オーストリア主戦派が遥かに活動的だったため、あらゆる政治路線の世論主導者を団結させることができ、宣戦の決定はこの世論に押された結果だった。政治面でのイッレデンティズモ(失地回復主義あるいは未回収地回復運動)は、例えば、チェザーレ・バッティスティ(英語版)が支持していた。作家で後にファシズムの先駆者となったガブリエーレ・ダンヌンツィオは首都ローマで戦争を支持するデモやイベントなどを組織。当時は社会主義者ジャーナリストだったベニート・ムッソリーニも1914年10月以降参戦を訴えて、イタリア社会党から除名処分を受けていた。ムッソリーニは(おそらくフランスからの資金を受けて)新聞の『イル・ポポロ・ディタリア(英語版)』を創刊して、連合国側で参戦することを求めた。主戦派はフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティら未来派の支持も受けた。宣戦直前のイタリア議会は多数派の長で元首相のジョヴァンニ・ジョリッティの中立路線を支持した(ダンヌンツィオがジョリッティの暗殺予告を出したほどであった)が、実際に政治上の決定を下したのは議会ではなかった。5月20日に議会が戦争借款を審議したとき、借款に反対したのは社会主義者だけだった。ジョリッティ派やカトリック教会などは戦争に反対したが、愛国的であると証明しようとして借款を受け入れた。 イタリア戦線の前線はスイス国境のステルヴィオ峠からドロミーティ山脈、カルニーチェ・アルプス(英語版)、イゾンツォ川、そしてアドリア海岸まで続く。オーストリア=ハンガリーは三正面作戦(セルビア、ロシア、イタリア)を強いられ、中央同盟国の情勢がさらに厳しくなった。しかも、イタリアが参戦した直後、オーストリアは十分な兵力でイタリアとの前線を守備することができなかった。一部地域では民兵、ラントヴェーア(英語版)、シュタントシュッツェン(英語版)3万人を含むラントシュトルム(英語版)などに頼っていた。イゾンツォ川沿いの戦闘は宣戦布告直後に行われ、第一次イゾンツォの戦いは6月23日に開始した(7月7日まで)。イタリアは人数で大きく優勢で、広大な領土を占領したにもかかわらず、第一次イゾンツォの戦いも第二次イゾンツォの戦いも(7月17日 - 8月3日)大きな突破にはならなかった。第三次(10月18日 - 11月3日)と第四次(11月10日 - 12月2日)は人命と資源が大量に失われたが、大局は全く変わらなかった。第一次ドロミーティ攻勢(ドイツ語版)(7月5日 - 8月4日)はアルプス山脈の戦役の始まりとなったが、軍事史上でも画期であった。すなわち、標高の高い山上で長期間戦闘が行われる初例となったのであった(オルトレス山(英語版)の標高は約3,900mだった)。
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