イタリア王位継承提案の辞退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 07:38 UTC 版)
「ギヨーム5世 (アキテーヌ公)」の記事における「イタリア王位継承提案の辞退」の解説
ギヨームは巡礼者として1年に1回はヨーロッパを広く旅し、ローマかスペインを訪れ、訪問先の国王から大変歓迎され、もてなされた。 当時、アキテーヌの宮廷は国際色豊かであり、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世やレオン王アルフォンソ5世、イングランド王クヌート1世の派遣した大使の来訪時には君主ロベール2世も共に歓迎した。 後継者のいないハインリヒ2世が崩御した際には、イタリア王国貴族の中には、コッラード2世の選出を受け入れてドイツ王国との同盟を維持するよりも別の候補者を求める者もいた。 1024年、スーザ侯オルデリーコ・マンフレーディ2世に率いられた大使がフランスに渡り1年ほど滞在し、その際ロベール2世の王子ユーグおよび(ユーグが拒否した後に)ギヨーム5世を候補者として選んだ。その際、ギヨームの資質やその人徳にイタリア大使ら多くの者が感銘を受けた。 ギヨームはこの提案を真剣に考えたが、実際にイタリアを訪れた際、政治情勢が自分には大変不利であることを感じ、自分自身と将来の相続人のために王位継承は放棄した。 残存している彼の6通の手紙は内容のほとんどがイタリアの王位継承提案に関するやりとりである。
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