イタリア海軍時代とは? わかりやすく解説

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イタリア海軍時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 20:52 UTC 版)

シピオーネ・アフリカーノ (軽巡洋艦)」の記事における「イタリア海軍時代」の解説

1938年海軍計画基づいて発注されたシピオーネ・アフリカーノは、1939年9月28日リボルノのオデーロテルニオーランド(O.T.O.)造船所配置された、同クラス10番艦だった。フランスイギリスによってイタリア課せられた制裁により高強度鋼が不足したため、作業ゆっくりと進み1941年1月12日進水1943年4月23日にシピオーネ・アフリカーノとして完成して就役した。 シピオーネ・アフリカーノは就役時に艦隊駆逐艦グループ配属され1943年5月大規模な演習参加した7月には連合軍シチリア侵攻したため、メッシーナ海峡閉鎖されるのは時間の問題だった。イタリア海軍巡洋艦派遣してタラント部隊強化することを決定した。そして、この作戦スキュラ作戦呼ばれた1943年7月17日の夜、シピオーネ・アフリカーノは、メッシーナ海峡・プンタポッソ沖において5マイル(8.0km)先を高速移動する4隻の英海軍のエルコ魚雷艇イタリア開発したEC.3 Gufoレーダーにより発見し攻撃したレッジョ・ディ・カラブリアとペラーロの間で戦闘三分続き、MTB316を沈めMTB313を大破させた。 その後イタリア沿岸配備されドイツとイタリア砲台誤射発砲され軽微な被害2人負傷者出した。シピオーネ・アフリカーノはラ・スペツィア沖からタラント移動し午前9時46分に到着したイオニア海での戦闘の後、シピオーネ・アフリカーノは軽巡洋艦ポンペオ・マーノと軽巡洋艦ルイージ・カドルナと共にタラント軽巡洋艦グループ(Gruppo Incrociatori Leggeri)に割り当てられた。シチリア島からの撤退対す連合軍介入阻止する作戦一環としてスキピオ8月4日から17日まで、ルイージ・カドルナと共にタラント湾とスクイラス湾に4つ地雷原敷設した1943年9月8日、カシビレ休戦協定発表され連合国対すイタリアの降伏告げた9月9日の朝、シピオーネ・アフリカーノはアドリア海北上しペスカーラ向かい政府首脳避難させるよう命じられた。途中で、シピオーネは前の晩にタラントから脱出したドイツSボート(S-54S-61)に遭遇したが、二隻は煙幕展開し、シピオーネが砲撃する前に脱出した。シピオーネは真夜中にペスカーラ到着したが、政府首脳はすでにコルベット艦バイオネッタに乗って脱出していたことが判明した。シピオーネ・アフリカノは反転し翌日0700にヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とその家族乗ったコルベット追いつき、ブリンディジまで護衛し途中でドイツ空軍空襲追い払った1943年9月29日、シピオーネ・アフリカーノはピエトロ・バドリオ元帥乗せからブリンディジマルタ向けて出発し同日バレッタ到着したバドリオは、英国戦艦ネルソン艦上イタリアの降伏確認し共同参戦国として連合国参加する休戦協定に正式署名したその後シピオーネ・アフリカーノは、イタリア海軍艦艇として残り戦争期間を過ごし連合軍の艦艇と共に戦い、さらに146任務をこなし計56,637 nmの距離を航行した戦後、シピオーネ・アフリカーノは戦後理に備えてラ・スペツィア移され1946年イタリア海軍退役する。シピオーネ・アフリカーノは、1947年パリ平和条約によって同型艦のアッティリオ・レゴロと共にフランス割り当てられ1948年8月8日イタリア海軍から正式に除籍。'S.7'と改名されトゥーロン向けて航海し8月15日正式にフランス移籍

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イタリア海軍時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:04 UTC 版)

コマンダンテ・カッペリーニ (潜水艦)」の記事における「イタリア海軍時代」の解説

イタリア海軍1935年から多数整備した近海潜水艦系列属す航洋潜水艦マルチェロ級」の「コマンダンテ・カッペリーニ」として1939年昭和14年9月23日就役した。 第二次世界大戦当初地中海配備されたが、1940年9月には大西洋で任務についた1941年1月5日フリータウン沖でイギリス貨物船シェイクスピア」、9日後には武装商船「ユーミーアス」を沈めたまた、英貨物船「ミゲル・デ・ラリネガ」(Miguel de Larrinaga、5,231トン)に損傷与えている。 1942年9月西アフリカ沖で起きたラコニア号事件では救助活動加わった撃沈数(コマンダンテ・カッペリーニ)哨戒日時沈没地点船名船籍トン数付記2rd 1940年10月15日 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯3159西経3120分 / 北緯31.983度 西経31.333度 / 31.983; -31.333アゾレス諸島付近 Kabaro ベルギー 5,186トン 貨物船乗組員43名中42生存 3rd 1941年1月5日 北緯5245分 西経2359分 / 北緯52.750度 西経23.983度 / 52.750; -23.983カーボベルデ北東沖 Shakespear イギリス 5,029トン 貨物船乗組員42名中22生存 3rd 1941年1月14日 北緯8度55西経15度03分 / 北緯8.917度 西経15.050度 / 8.917; -15.050コナクリ南西Eumaeus イギリス 7,472トン 客船乗組員23死亡 7rd 1942年5月19日 北緯0300西経3300分 / 北緯3.000度 西経33.000度 / 3.000; -33.000ブラジルトウロス北北東沖 Tisnaren スウェーデン 5,747トン 貨物船死亡者なし 7th 1942年5月31日 南緯0045分 西経2950分 / 南緯0.750度 西経29.833度 / -0.750; -29.833ペルナンブーコ北東沖 Dinsdale イギリス 8,214トン タンカー乗組員13死亡 合計: 5隻 31,648トン 1943年になると日本との輸送任務用に改造され、「コマンダンテ・カッペリーニ」は5月11日ボルドー基地出発7月9日サバン着き翌日シンガポール入港した生ゴム、錫、タングステンといった物資積んだ「コマンダンテ・カッペリーニ」は8月22日ヨーロッパへ向けて出港予定であったが、出港日本側によって妨げられた(8月末にシンガポール出港し9月8日サバン着いた、とも)。9月9日連合国対しイタリア降伏し9月12日日本側によって接収された。

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イタリア海軍時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:01 UTC 版)

ルイージ・トレッリ (潜水艦)」の記事における「イタリア海軍時代」の解説

1940年5月15日イタリア王国領のリグーリア州ラ・スペツィア位置するオデーロ・テルニ・オルランド社のムッジアーノ造船所竣工したグリエルモ・マルコーニ4番艦『ルイージ・トレッリ』は、翌月第二次世界大戦が始まると、訓練経てグリエルモ・マルコーニ』『アレッサンドロ・マラスピーナ』『マッジョーレ・バラッカ』ら同型艦と共に実戦投入された。最初の任務としてリグーリア州沿岸からコルシカ島までのジェノヴァ湾哨戒任務行い次いで地中海から大西洋移動する命令受けてジブラルタル海峡密かに通過したフランスの独伊に対す降伏伴ってヴィシー政権成立するイタリア王国軍は伊仏国境にイタリア南仏進駐領域形成し、更に大西洋側への海軍基地として南仏の湾港都ボルドーにも進駐した。大西洋でドイツ海軍Uボートによる連合国船舶対象とした通商破壊が行われており、これに助力すべくイタリア海軍地中海から28隻、紅海から4隻の潜水艦ボルドー移動させて艦隊編成したBETASOM)。 1940年9月29日その内一隻として加わった『ルイージ・トレッリ』はリスボンから西アフリカまでの海域担当する艦隊司令部からの命令を受け、アゾレス諸島への偵察任務行った1941年1月15日3度目哨戒連合国商船補足ギリシャ商船ネメア』『ニコラ・フィルニス』とノルウェー商船ブレーク』を撃沈し続いて1月28日イギリス商船『ウルラ』を沈めた同年7月21日7回目パトロールでにノルウェー船籍タンカー『イーダ・クヌーセン』を沈め1942年2月にはイギリス商船『スコティッシュ・スター』、パナマ船籍タンカー『エッソ・コペンハーゲン』を撃沈したBETASOMドイツ海軍式の群狼戦術(ウォルフ・パック)を行う中で、本艦成果得られ潜水艦一つだった。2年間ほどの作戦活動撃沈した船籍合計42,871トンとなった撃沈数(ルイージ・トレッリ)哨戒日時沈没地点船名船籍トン数付記3rd 1941年1月15日 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯5233西経2413分 / 北緯52.550度 西経24.217度 / 52.550; -24.217ファストネット西方700マイル地点付近 Nemea ギリシャ 5,101トン 貨物船乗組員31名中14生存 3rd 1941年1月15日 北緯5245分 西経2359分 / 北緯52.750度 西経23.983度 / 52.750; -23.983大西洋上 Brask ノルウェー 4,079トン 貨物船乗組員32名中20生存 3rd 1941年1月16日 北緯5300西経2400分 / 北緯53.000度 西経24.000度 / 53.000; -24.000ロッコール島西方429マイル地点付近 Nicolas Filinis ギリシャ 3,111トン 貨物船乗組員29名中26生存 3rd 1941年1月28日 北緯5454西経1900分 / 北緯54.900度 西経19.000度 / 54.900; -19.000アイルランド西方250マイル地点付近 Urla イギリス 5,198トン 貨物船死亡者なし 5th 1941年7月21日 北緯3410西経14度45分 / 北緯34.167度 西経14.750度 / 34.167; -14.750マデイラ島北東70マイル地点付近 Ida Knudsen ノルウェー 8,913トン タンカー乗組員5名死亡 8th 1942年2月19日 北緯13度24西経4936分 / 北緯13.400度 西経49.600度 / 13.400; -49.600バルバドス東方Scottish Star イギリス 7,224トン 貨物船乗組員73名中69生存 8th 1942年2月25日 北緯10度32西経5320分 / 北緯10.533度 西経53.333度 / 10.533; -53.333ギアナ北方Esso Copenhagen パナマ 9,245トン タンカー乗組員39名中38生存 合計: 7隻 42,871トン 戦争後半に入ると制空権制海権次第連合軍側に傾いていったBETASOM艦隊駐留するボルドー爆撃を受け、幾つかの艦艇損傷したが『ルイージ・トレッリ』はこうした攻撃を耐えて健在の状態にあった1943年3月ドイツ海軍イタリア海軍との間で大型潜水艦貸与協定結ばれ、更に日本海軍とも日本側が占領するシンガポールへの海軍基地建設協定締結されるなど、地理的に離れた日独海軍連絡作戦に伊海軍も加わる事になった(遣日潜水艦作戦)。1943年6月16日日本海軍伊30テレフンケン社開発したウルツブルク・レーダー器材図面輸送失敗したのを受けてBETASOMから『ルイージ・トレッリ』がテレフンケン社のハインリヒ・フォーダス技官日本佐竹金次陸軍中佐乗せシンガポール出撃した。指揮権ドイツ海軍預けられたが、潜水艦運用イタリア海軍継続した

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