イタリア海軍時代
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「シピオーネ・アフリカーノ (軽巡洋艦)」の記事における「イタリア海軍時代」の解説
1938年の海軍計画に基づいて発注されたシピオーネ・アフリカーノは、1939年9月28日にリボルノのオデーロテルニオーランド(O.T.O.)造船所に配置された、同クラスの10番艦だった。フランスとイギリスによってイタリアに課せられた制裁により高強度鋼が不足したため、作業はゆっくりと進み、1941年1月12日に進水、1943年4月23日にシピオーネ・アフリカーノとして完成して就役した。 シピオーネ・アフリカーノは就役時に艦隊駆逐艦グループに配属され、1943年5月の大規模な演習に参加した。7月には連合軍がシチリアに侵攻したため、メッシーナ海峡が閉鎖されるのは時間の問題だった。イタリア海軍は巡洋艦を派遣してタラントの部隊を強化することを決定した。そして、この作戦はスキュラ作戦と呼ばれた。 1943年7月17日の夜、シピオーネ・アフリカーノは、メッシーナ海峡・プンタポッソ沖において5マイル(8.0km)先を高速で移動する4隻の英海軍のエルコ魚雷艇をイタリアが開発したEC.3 Gufoレーダーにより発見し、攻撃した。レッジョ・ディ・カラブリアとペラーロの間で戦闘は三分間続き、MTB316を沈めMTB313を大破させた。 その後イタリア沿岸に配備されたドイツとイタリアの砲台に誤射で発砲され、軽微な被害と2人の負傷者を出した。シピオーネ・アフリカーノはラ・スペツィア沖からタラントに移動し、午前9時46分に到着した。 イオニア海での戦闘の後、シピオーネ・アフリカーノは軽巡洋艦ポンペオ・マーノと軽巡洋艦ルイージ・カドルナと共ににタラントの軽巡洋艦グループ(Gruppo Incrociatori Leggeri)に割り当てられた。シチリア島からの撤退に対する連合軍の介入を阻止する作戦の一環として、スキピオは8月4日から17日まで、ルイージ・カドルナと共にタラント湾とスクイラス湾に4つの地雷原を敷設した。 1943年9月8日、カシビレ休戦協定が発表され、連合国に対するイタリアの降伏を告げた。9月9日の朝、シピオーネ・アフリカーノはアドリア海を北上し、ペスカーラに向かい、政府首脳を避難させるよう命じられた。途中で、シピオーネは前の晩にタラントから脱出したドイツのSボート(S-54とS-61)に遭遇したが、二隻は煙幕を展開し、シピオーネが砲撃する前に脱出した。シピオーネは真夜中にペスカーラに到着したが、政府首脳はすでにコルベット艦バイオネッタに乗って脱出していたことが判明した。シピオーネ・アフリカノは反転し、翌日0700にヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とその家族が乗ったコルベットに追いつき、ブリンディジまで護衛し、途中でドイツ空軍の空襲を追い払った。 1943年9月29日、シピオーネ・アフリカーノはピエトロ・バドリオ元帥を乗せからブリンディジをマルタに向けて出発し。同日にバレッタに到着したバドリオは、英国の戦艦ネルソンの艦上でイタリアの降伏を確認し、共同参戦国として連合国に参加する休戦協定に正式署名した。 その後シピオーネ・アフリカーノは、イタリア海軍艦艇として残りの戦争期間を過ごし、連合軍の艦艇と共に戦い、さらに146の任務をこなし計56,637 nmの距離を航行した。戦後、シピオーネ・アフリカーノは戦後処理に備えてラ・スペツィアに移され、1946年にイタリア海軍を退役する。シピオーネ・アフリカーノは、1947年のパリ平和条約によって同型艦のアッティリオ・レゴロと共にフランスに割り当てられ、1948年8月8日にイタリア海軍から正式に除籍。'S.7'と改名され、トゥーロンに向けて航海し、8月15日に正式にフランスに移籍。
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イタリア海軍時代
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「コマンダンテ・カッペリーニ (潜水艦)」の記事における「イタリア海軍時代」の解説
イタリア海軍が1935年から多数整備した近海用潜水艦の系列に属する航洋型潜水艦「マルチェロ級」の「コマンダンテ・カッペリーニ」として1939年(昭和14年)9月23日に就役した。 第二次世界大戦当初は地中海に配備されたが、1940年9月には大西洋での任務についた。1941年1月5日フリータウン沖でイギリスの貨物船「シェイクスピア」、9日後には武装商船「ユーミーアス」を沈めた。また、英貨物船「ミゲル・デ・ラリネガ」(Miguel de Larrinaga、5,231トン)に損傷を与えている。 1942年9月、西アフリカ沖で起きたラコニア号事件では救助活動に加わった。 撃沈数(コマンダンテ・カッペリーニ)哨戒日時沈没地点船名船籍トン数付記2rd 1940年10月15日 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度59分 西経31度20分 / 北緯31.983度 西経31.333度 / 31.983; -31.333アゾレス諸島付近 Kabaro ベルギー 5,186トン 貨物船、乗組員43名中42名生存 3rd 1941年1月5日 北緯52度45分 西経23度59分 / 北緯52.750度 西経23.983度 / 52.750; -23.983カーボベルデ北東沖 Shakespear イギリス 5,029トン 貨物船、乗組員42名中22名生存 3rd 1941年1月14日 北緯8度55分 西経15度03分 / 北緯8.917度 西経15.050度 / 8.917; -15.050コナクリ南西沖 Eumaeus イギリス 7,472トン 客船、乗組員23名死亡 7rd 1942年5月19日 北緯03度00分 西経33度00分 / 北緯3.000度 西経33.000度 / 3.000; -33.000ブラジルトウロス北北東沖 Tisnaren スウェーデン 5,747トン 貨物船、死亡者なし 7th 1942年5月31日 南緯00度45分 西経29度50分 / 南緯0.750度 西経29.833度 / -0.750; -29.833ペルナンブーコ北東沖 Dinsdale イギリス 8,214トン タンカー、乗組員13名死亡 合計: 5隻 31,648トン 1943年になると日本との輸送任務用に改造され、「コマンダンテ・カッペリーニ」は5月11日にボルドーの基地を出発。7月9日にサバンに着き、翌日シンガポールに入港した。 生ゴム、錫、タングステンといった物資を積んだ「コマンダンテ・カッペリーニ」は8月22日にヨーロッパへ向けて出港予定であったが、出港は日本側によって妨げられた(8月末にシンガポールを出港し、9月8日にサバンに着いた、とも)。9月9日に連合国に対しイタリアは降伏し、9月12日に日本側によって接収された。
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イタリア海軍時代
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「ルイージ・トレッリ (潜水艦)」の記事における「イタリア海軍時代」の解説
1940年5月15日、イタリア王国領のリグーリア州ラ・スペツィアに位置するオデーロ・テルニ・オルランド社のムッジアーノ造船所で竣工したグリエルモ・マルコーニ級4番艦『ルイージ・トレッリ』は、翌月に第二次世界大戦が始まると、訓練を経て『グリエルモ・マルコーニ』『アレッサンドロ・マラスピーナ』『マッジョーレ・バラッカ』ら同型艦と共に実戦へ投入された。最初の任務としてリグーリア州沿岸からコルシカ島までのジェノヴァ湾の哨戒任務を行い、次いで地中海から大西洋へ移動する命令を受けてジブラルタル海峡を密かに通過した。 フランスの独伊に対する降伏に伴ってヴィシー政権が成立するとイタリア王国軍は伊仏国境にイタリア南仏進駐領域を形成し、更に大西洋側への海軍基地として南仏の湾港都市ボルドーにも進駐した。大西洋ではドイツ海軍のUボートによる連合国船舶を対象とした通商破壊が行われており、これに助力すべくイタリア海軍は地中海から28隻、紅海から4隻の潜水艦をボルドーに移動させて艦隊を編成した(BETASOM)。 1940年9月29日、その内の一隻として加わった『ルイージ・トレッリ』はリスボンから西アフリカまでの海域を担当する艦隊司令部からの命令を受け、アゾレス諸島への偵察任務を行った。1941年1月15日、3度目の哨戒で連合国の商船を補足、ギリシャ商船『ネメア』『ニコラ・フィルニス』とノルウェー商船『ブレーク』を撃沈し、続いて1月28日にイギリス商船『ウルラ』を沈めた。同年7月21日、7回目のパトロールでにノルウェー船籍のタンカー『イーダ・クヌーセン』を沈め、1942年2月にはイギリス商船『スコティッシュ・スター』、パナマ船籍のタンカー『エッソ・コペンハーゲン』を撃沈した。 BETASOMがドイツ海軍式の群狼戦術(ウォルフ・パック)を行う中で、本艦は成果を得られた潜水艦の一つだった。2年間ほどの作戦活動で撃沈した船籍の合計は42,871トンとなった。 撃沈数(ルイージ・トレッリ)哨戒日時沈没地点船名船籍トン数付記3rd 1941年1月15日 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯52度33分 西経24度13分 / 北緯52.550度 西経24.217度 / 52.550; -24.217ファストネット西方700マイル地点付近 Nemea ギリシャ 5,101トン 貨物船、乗組員31名中14名生存 3rd 1941年1月15日 北緯52度45分 西経23度59分 / 北緯52.750度 西経23.983度 / 52.750; -23.983大西洋上 Brask ノルウェー 4,079トン 貨物船、乗組員32名中20名生存 3rd 1941年1月16日 北緯53度00分 西経24度00分 / 北緯53.000度 西経24.000度 / 53.000; -24.000ロッコール島西方429マイル地点付近 Nicolas Filinis ギリシャ 3,111トン 貨物船、乗組員29名中26名生存 3rd 1941年1月28日 北緯54度54分 西経19度00分 / 北緯54.900度 西経19.000度 / 54.900; -19.000アイルランド西方250マイル地点付近 Urla イギリス 5,198トン 貨物船、死亡者なし 5th 1941年7月21日 北緯34度10分 西経14度45分 / 北緯34.167度 西経14.750度 / 34.167; -14.750マデイラ島北東70マイル地点付近 Ida Knudsen ノルウェー 8,913トン タンカー、乗組員5名死亡 8th 1942年2月19日 北緯13度24分 西経49度36分 / 北緯13.400度 西経49.600度 / 13.400; -49.600バルバドス東方沖 Scottish Star イギリス 7,224トン 貨物船、乗組員73名中69名生存 8th 1942年2月25日 北緯10度32分 西経53度20分 / 北緯10.533度 西経53.333度 / 10.533; -53.333ギアナ北方沖 Esso Copenhagen パナマ 9,245トン タンカー、乗組員39名中38名生存 合計: 7隻 42,871トン 戦争も後半に入ると制空権・制海権は次第に連合軍側に傾いていった。BETASOM艦隊の駐留するボルドーも爆撃を受け、幾つかの艦艇が損傷したが『ルイージ・トレッリ』はこうした攻撃を耐えて健在の状態にあった。 1943年3月、ドイツ海軍とイタリア海軍との間で大型潜水艦の貸与協定が結ばれ、更に日本海軍とも日本側が占領するシンガポールへの海軍基地建設の協定が締結されるなど、地理的に離れた日独海軍の連絡作戦に伊海軍も加わる事になった(遣日潜水艦作戦)。1943年6月16日、日本海軍の伊30がテレフンケン社の開発したウルツブルク・レーダーの器材・図面の輸送に失敗したのを受けて、BETASOMから『ルイージ・トレッリ』がテレフンケン社のハインリヒ・フォーダス技官と日本の佐竹金次陸軍中佐を乗せ、シンガポールへ出撃した。指揮権はドイツ海軍に預けられたが、潜水艦の運用はイタリア海軍が継続した。
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