イタリア海軍での就役
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「カラビニエーレ (駆逐艦)」の記事における「イタリア海軍での就役」の解説
平和条約の条項に基づいて、第二次世界大戦を生き延びたグラナティエーレ(イタリア語版)やカラビニエーレなどのソルダティ級の何隻かはイタリア海軍の一部となった。 イタリアが1953年にNATOの一員になってから、同艦はそれまでの識別記号CBにかえてペナント・ナンバーD551が付与された。 1953年2月に、アーセナル海軍工廠で近代化改修を受け始め、2年以上あとの1955年4月に完了した。これらの作業の後で、同艦の外観は著しく変更され、檣楼が艦尾側に延長され、それにあわせて舷側も高くされたが、これらの新しい構造に艦橋、射撃指揮所、艦の全てのセンサー(レーダー、探信儀など)の情報が集約されるアメリカ海軍官邸のCIC(戦闘情報センター)同様のCOC(戦闘指揮所)が含まれていた。 主兵装は、2基の2連装アンサルドModel 1926 50口径120mm砲のうち、1基は取り除かれ、120mm50口径砲3門を檣楼上に1門、後部甲板室上に2門が2つの防御システムとして再構築され、全ての対空兵器も撤去されて、煙突の後と中央部の甲板室の3つの複合構造の6門のボフォース 40mm機関砲に置き換えられ、対潜兵装はマスト後部の2基のM型投射機と、艦尾に2基のドイツ式投射機を備え、4基それぞれに爆雷装填器が装備された。 電子装備としては、アメリカ製「QGB」式探信儀が装備され、航法および水面上探索レーダーと対空用にAN/SPS-6レーダーが装備された。 この新しい構成で、同艦は1958年に予備役に編入されるまでチーム行動に参加し、その後、マリペルマン・ラ・スペツィアで新しい兵器と装備を試験するための艦として再編成された。 1960年12月1日からカラビニエーレは新しいペナント・ナンバーA5314を割り当てられ、再び実験船に再分類されて使用された。1964年に予備役に編入され、1965年1月14日の夕刻に艦艇旗の最後の降納の儀式ととものラ・スペツィア港のドックで、イントレピド(イタリア語版)とインパヴィード(イタリア語版)の間に係留された。 実験船として使用されたこの期間に、オート・メラーラ社のMMI型76mm62口径_砲が長期間テストされ、1960年代にカルロ・ベルガミーニ級フリゲートやアルピーノ級フリゲート、ドーリア級ミサイル巡洋艦およびヘリコプター搭載巡洋艦ヴィットリオ・ヴェネトに搭載され、10年後に駆逐艦アウダーチェ級駆逐艦が就役すると76mm62口径コンパクト砲に置き換えられた。 武装解除された後で、浮力が不安定になり、解体を待つ間ヴァリチェッラ・ダムエリアに係留されてフリゲート艦アルタイル(英語版)が引き継ぐ1970年代初頭までカラビニエーレはヴァリニャーノで潜水奇襲攻撃部隊の標的にされた。1978年3月にオルトーナの造船所で解体されるために売却され、造船所へ移送するために曳航され始めるとすぐに荒れた海と、その間に多数の水漏れが発生していたことから、ラ・スペツィアの防波堤のすぐ外で浸水し始め、岸に曳き戻そうとしたが、右舷側に倒れて浅い海底に沈み、ほとんどの部分が海面上に出たままになった。 沈没後数ヶ月経って回収され、カラビニエーレの残骸はラ・スペツィアの造船所で解体された。
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