イタリア民法典論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
イタリアでは1870年の統一まで多数の王・公国が乱立していたが、ナポレオンに征服されて仏民法典が施行され、民事婚や離婚制度も導入された。カトリック教会は体制崩壊後に諸国と協調・妥協しつつ婚姻統制権の奪還に努めるが、イタリア統一運動の一環として現れた1865年の民法典からの民事婚主義の追放には失敗。教会婚は法的意味を失った。しかし、庶民には教会婚が浸透しており、法律婚の手続きを怠る者が多く非嫡出子や事実上の重婚が増加。教会婚に何らかの法的意味を持たせなければならないことが明らかになった。また逆に民事婚主義(契約的婚姻観)を徹底して離婚を認めるべきとの主張もあったが、法律婚と教会婚の調和を志向しつつも婚姻不解消主義維持を主張するレオ13世 (ローマ教皇)らの強力な反対論があり、修正法案は不成立。このように社会の実情に合わない規定もあったにもかかわらず、法典改正は大事業のため容易に実現できず、ファシスト政権樹立まで解決を待つことになったのである。
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