体制崩壊後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/16 22:21 UTC 版)
だが、正平22年/貞治6年(1367年)に入り、4月に基氏が、12月に義詮が急死すると、事態が急変する。後継者の足利氏満・足利義満はいずれも幼少であったためである。翌正平23年/応安元年(1368年)2月、関東管領上杉憲顕が今後の体制について幕府側と協議するために上洛している最中、河越直重を中心とする武蔵平一揆が突如蜂起して、宇都宮氏綱もこれに呼応、更に新田氏勢力もこれに乗じて挙兵した。直重や氏綱は薩埵山体制の中核にいた人物であり、基氏死去の今が憲顕排除の好機と見たのである。 だが、憲顕は鎌倉府内部の紛争に過ぎないこの蜂起を室町幕府に対する反逆行為として認定を得ることに成功して鎌倉に帰還、先に氏満を奉じて河越直重の河越館を攻撃中であった上杉朝房と合流して閏6月に攻め滅ぼし、8月には宇都宮氏綱も屈服させた。但し、河越氏とは違って宇都宮氏に対する処罰は軽微に留まった。これは先の両国没収時に多くの所領を奪われていること、宇都宮氏の没落が下野の守護である小山氏の権力強化につながることを警戒したからと考えられている。これをもって鎌倉府の基礎は揺るぎないものになったのである。
※この「体制崩壊後」の解説は、「薩埵山体制」の解説の一部です。
「体制崩壊後」を含む「薩埵山体制」の記事については、「薩埵山体制」の概要を参照ください。
- 体制崩壊後のページへのリンク