体制内「野党」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/01 09:45 UTC 版)
「インドネシア民主党」の記事における「体制内「野党」」の解説
インドネシアの総選挙法(当時)の規定では、2政党・ゴルカルによって提出される候補者名簿について、各級の選挙管理委員会が審査し、不適格者に対して出馬を拒否する権限を持っていた。すなわち、政府の意向に沿わない候補者を「失格」とすることで、政権にとって脅威となりうる人物を選挙過程から排除することが制度的に認められていたのである。 また、かつてのスカルノ政権期には、中央政府の内務省や地方政府内にPNI支持者が多かったが、スハルト政権期になると、「忠誠一元化」の号令のもとに政府内でのPNIの影響力は排除された。そのためPNIは重要な支持基盤と資金源を失い、1955年時の総選挙で22.4%を獲得した同党は、1971年総選挙で上記の得票率しか確保できなかった。 非イスラーム系諸政党の「寄り合い所帯」として発足したPDIは、党内の主導権争いに明け暮れた。党の組織運営にあたっては、議長人事・中央執行委員選出などにおいて政府の承認が必要であり、容易に政権からの介入を許した。同時に、党内での内紛が生じると政権に仲裁を依頼して混乱を収拾してもらい、また、党の運営資金の面でも政府からの補助金頼みというのが実状だった。政権内部でも、民主主義国家の外観を整えるためには「野党」の存続が必要であるとの配慮から、PDIの維持に関心を示していたのである。
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