「王位」と投下領の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:47 UTC 版)
「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「「王位」と投下領の関係」の解説
第5代皇帝クピライの治世には様々な制度変更が行われた(大元ウルスの成立)が、諸王・功臣の待遇においては「王位」の授与とそれに伴う定例歳賜の開始が大きな変革であった。大元ウルスにおいては、「ウルスの長(諸王・功臣)」は六階級に分類される「王位」を授与され、その王位のランクごとに年に一度カアンから銀が下賜される「歳賜」が定められていた。 この「王位」の名称(王号)は諸王・功臣がそれぞれ有する投下領に拠って命名されることがほとんどで、例えばカチウン家は「(カチウン家の所有する印璽を)その分地によって『済南王印』に改めた(因其分地改為『済南王印』)」ことが『元史』巻14に明記されている。とりわけ、最高ランク(「金印獣紐」)の王位は春秋戦国時代の古代国家にちなむ「一字王号」がつけられるのが慣例であり(燕王・秦王・晋王など)、都市名などに由来する下位ランクの王号とは一線を画すものと位置付けられていた。「一字王号」は当初においてはクビライの直系にのみ許される特別な王号であったが、カイシャンが即位すると即位に協力した諸王への恩賞として「一字王号」を頻発するようになり、多くの王家は上位の「一字王号」と「位の「二字王号」の両方を有するようになる。 王位の授与は元々、既存の「ウルスの長(諸王・功臣)」のランク付け・体系化のため始められた制度であったが、時代が下ると「投下領の授与(=ウルスの新設)」 と「王位の授与」がセットで行われるようになる。例えば、カイシャンの即位に貢献したチャガタイ系傍系王族のトレは、「越王位」の授与と「紹興路(古代越国の地)」の授与が同時に行われた。同様に、「天暦の内乱」の主導者であったエル・テムルも内乱終結後に「太平王」位と「太平路」の投与がセットで行われている。 このような王位の授与はモンゴル社会にも大きな影響を与え、大元ウルス崩壊後にも長らく投下領にちなむ「王号」は用いられた。例えば、15世紀半ばに有力であったカサル家のボルナイは元代の王号「斉王」を明朝に対して称したことが記録されている。また、ボルナイと同時代に活躍したカチウン家のドーラン・タイジ、オッチギン家のウネ・テムル、ベルグテイ王家のモーリハイはそれぞれ鄭王・劉王・黄苓王と称したことが記録されているが、これも元代の王号である済南王・遼王・広寧王が転靴したものと考えられている。遼王=劉王のように、元代の王号が北元時代に違う文字だが、同じ音の王号として伝わっていることは、「王号」がモンゴル社会の中では漢文ではなくウイグル文字(もしくはパスパ文字)モンゴル語で受容され、少なくとも15世紀まで伝えられていたことを示唆する。これら東道諸王の後裔はチンギス・カンの末裔ではないがそれに次ぐ貴種として、北元時代以後「オン(ong:「王」の転訛)」として総称されるようになった。
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