内乱終結後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:25 UTC 版)
「エドワード1世 (イングランド王)」の記事における「内乱終結後」の解説
内乱終結後のヘンリー3世晩年の統治はエドワードによって主導されていた。改革派諸侯を破ったとはいえ、彼らの定めた立憲的原則を全否定するのは王権の不安定を招くと判断したエドワードは、1266年にウェストミンスター条項に盛り込まれている諸改革案を確認するとともに1267年のマールバラ法(英語版)でその定着を図った。しかしこのマールバラ法は、ウェストミンスター条項の流れを汲んで王権の抑制より貴族の権力の抑制を図るものであった。領主裁判所の誤審上訴権を国王裁判所が独占する権利を定めることで内乱中に衰えた王の司法権力の回復を図っていた。さらに動産差押が認められる場合やその手続きも定め、当時広く社会に横行していた領主による自力救済的な差押さえを抑制した。 1270年8月からは第8回十字軍に参加し、イングランドを不在にした。1272年夏にエルサレムでイスラムの暗殺者に毒付き短剣で手傷を負わされるも妻エリナーが毒を口で吸いだすなど献身的な治療をしたおかげで一命をとりとめたという逸話があるが、これはエリナーを美化するための創作で史実ではないといわれる。
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