オッチギン家
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「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「オッチギン家」の解説
『元史』巻95歳賜一覧では「太祖弟斡真那顔位」として記録されている。 名称別名地域獲得年備考フルンボイル地方 黒山(『元史』) モンゴル高原 1206年 建国時の初封地 益都路 華北(ヒタイ) 1236年(丙申年) 丙申年分撥時に獲得 建寧路 江南(マンジ) 1281年(至元18年) 江南分撥時に獲得
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オッチギン家
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「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「オッチギン家」の解説
当主のナヤンを中心として反乱を起こし、「ナヤンの乱」の主力となった。『東方見聞録』の記述によると「40万騎」を擁する大軍であり、ナヤンがネストリウス派キリスト教を信仰していたため十字架を掲げていたという。オッチギン家直属のモンゴル騎兵のみならず、勢力圏の満州から女直人を微兵していたことが史料上から確認される。 一方、オッチギン家傍流のナイマダイはナヤンと挟を分かってクビライに味方している。ナイマダイは帝位継承戦争時には当時の当主タガチャルに逆らってアリク・ブケ派につき、「ナヤンの乱」時には逆にナヤンに逆らってクビライ側に就いたという特異な人物で、庶流の出であるが故に主流派に逆らって成り上がろうという意図を持った野心家だったのではないかと考えられている。
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