「玉砕」の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 16:15 UTC 版)
太平洋戦争当時の日本で「玉砕」の表現が初めて公式発表で使われたのは1943年のアッツ島玉砕であるが、軍隊内での文章などではそれ以前より使用例が見られる。 例えば、1942年(昭和17年)2月の第一次バターン半島の戦いでは、木村部隊から師団司令部へ「第一大隊ハ玉砕セントス」との電文が送られている。また、公刊戦史上は、1942年(昭和17年)12月8日にニューギニア戦線のゴナにおけるバサブア守備隊の玉砕を記録、続く連合軍の攻勢により、1943年(昭和18年)1月2日には同じニューギニア戦線でブナの陸海軍守備隊が玉砕したが、これらが国民に知らされたのは1944年(昭和19年)2月以降であった。 1943年(昭和18年)5月29日、アッツ島の日本軍守備隊が全滅した際、大本営発表として初めて「玉砕」の表現を使用した。これは「全滅」という言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くして「玉の如くに清く砕け散った」と印象付けようと意図したものであった。また補給路を絶たれて守備隊への効果的な援軍や補給ができないまま、結果的に「見殺し」にしてしまった軍上層部への責任論を回避させるものであった。 「アッツ島玉砕」では守備隊2,650名のうち、29名が捕虜になった。 大本営発表。アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。
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