南北戦争から競馬禁止法まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 00:46 UTC 版)
「アメリカ合衆国の競馬」の記事における「南北戦争から競馬禁止法まで」の解説
南北戦争中には南部諸州では競馬は中断され、競走馬も独立戦争の時と同じように戦争に駆り出された。戦争終結後、荒廃した南部諸州には競馬をする資力も馬そのものも残っていなかった。この時期にそれまでの競馬の中心であった南部から北部へと中心が移動していった。 ニューヨーク州では1865年にはレナード・ジェロームとオーガスト・ベルモントの二人が中心になってジェロームパーク競馬場(英語版)を開設、同時にアメリカンジョッキークラブを発足させた。この組織はそれまでのジョッキークラブとは違い、全国的な統括組織を目指して作られたものであり、ギャングが支配する不正とピューリタンたちの反競馬運動に対抗するべく競馬の健全化に取り組んだ。この試みは少なくとも部分的には成功し、ジェロームパーク競馬場では八百長も薬物もなかったと評されている。1868年からはオーガスト・ベルモントの名を冠したベルモントステークスが開始。 また1865年からアメリカンスタッドブック(英語版)の編纂も始まっている。元々南北戦争前から本家ジェネラルスタッドブックに倣ってアメリカ版スタッドブックを作ろうという動きはあった。しかしその結果は甚だ不完全なものであり、サンダース・ブルース(英語版)によって新たに作り直されたのが現在につながるアメリカンスタッドブックである。 ケンタッキー州は元々ブルーグラスと呼ばれる良質の牧草を備えた天然の放牧地を抱えており、競走馬生産は盛んに行われていた。競馬場も数は多かったが賞金が安かったために生産した馬は他州へ売却することが多かった。戦争ではケンタッキー州は中立であったが、戦場には度々なっており打撃を受けた。しかしそれ以上に南部の荒廃で受けた利益が大きかった。1875年にはチャーチルダウンズ競馬場が開設、同時に第1回ケンタッキーダービーが開かれている。またメリーランド州では1870年にピムリコ競馬場が開設、3年後の1873年にプリークネスステークスが始まる。1888年にはシープズヘッドベイ競馬場(英語版)で2歳馬による競走のフューチュリティステークスが始まり、この競走の創設により2歳馬路線の充実が一段と図られ、馬主も競走馬の活躍による恩恵を早い段階から受けられるようになり、アメリカの競馬もスタミナを重視する長距離寄りの競走からスピードを重視する短中距離寄りの競走に変遷していった。 更に競馬は中部・西部にも広がっていき、シカゴでは1884年にワシントンパーク競馬場(英語版)が開設。同年にアメリカンダービーが開かれた。戦争の被害をほとんど受けなかったカリフォルニアでは一気に競馬が広まり、1894年時点で40の競馬場があった。 また1866年にはアメリカで最初のブックメーカーがフィラデルフィアに登場。各地でも同様の業者が賭博を司るようになった。ジェロームたちはパリミュチュエル方式の導入を試みたのだが、ブックメーカーたちと競馬場の反対により上手くいかなかった。競馬に賭けられる金額が莫大なものとなるにつれ調教師たちへの圧力は極めて強いものになり、八百長・薬物が蔓延するようになった。 このような不公正な競馬の広がりに伴い、従前より競馬を白眼視してきた保守派の人々はついに競馬を大々的に攻撃し始めた。ミズーリ州とイリノイ州から始まった競馬禁止の波は全米に広がり、1908年にはニューヨーク州で賭博が禁止になった。1897年には314あった競馬場がこの年にはわずか25場に激減した。アメリカの多くの州で競馬が不可能になったことで、カナダや、競馬を禁止しなかったケンタッキー州やメリーランド州の競馬が利益を得た。しかし生産された競走馬の行き場が無くなったことで生産界は致命的な打撃を被り、数千頭が海外へ輸出された。優秀な調教師や騎手、裕福な馬主も多くが大西洋を渡ってイギリスやフランスへ移った。 ケンタッキー州ではチャーチルダウンズの支配人であったマット・ウィンの指揮のもと競馬を復活させるために統括団体を作って不正を取り締まり、パリミュチュエル方式を採用してブックメーカーを追い出すことで競馬に対する信頼を回復することに成功した。他の州でもこれに追随、ニューヨーク州の賭博禁止令も1913年に撤廃されて競馬が再開された。しかしそのまま消えてしまった競馬場もまた多い。 この時期に起きた大きな変化の一つが前述のパリミュチュエル方式の導入、そしてもう一つがアフリカ系アメリカ人の排除である。 元々、南部の牧場では馬の世話は黒人奴隷の役割であり、そこで身に着けた技術で騎手・調教師として活躍するのも自然な流れであった。第一回ケンタッキーダービー優勝馬アリスティデスに騎乗していたのも黒人のオリバー・ルイス(英語版)であり、このレースで騎乗した騎手の15人中13人が黒人であった。その後も黒人騎手の活躍は続き、ケンタッキーダービーの最初の16回のうち半分は黒人騎手が勝利している。しかし南北戦争終結後にやってきた人種差別の大波はスポーツ界を飲み込み、野球など(ニグロリーグも参照)と同様に黒人騎手は競馬界から排除されていった。ケンタッキーダービーに優勝した黒人騎手は1902年のジミー・ウィンクフィールド(騎乗馬アランアデール(英語版))が最後である。ダービーの騎乗すら1921年のヘンリー・キング(騎乗馬プラネット)を最後に2000年のマーロン・ジュリアン(英語版)(騎乗馬キュルール)まで実に79年の長きにわたって途絶えていた。この時の白人騎手の黒人騎手に対する迫害は酷いものでレース中に故意に落馬に追い込んだり、鞭を振り上げて叩いたりしていたという。これに追い打ちをかけて競馬禁止の波が襲い、波が引いた後も黒人たちは競馬に戻ってこようとはしなかった。 そしてもう一つ。アメリカ国内の競馬禁止令に伴って発生した「アメリカ競馬のイギリスへの侵入」もまた特筆すべきであろう。それまでのアメリカ競馬は本場イギリスの競馬から教えを乞う立場であり、競馬後進国であった。しかし独自の発展を続けたアメリカ競馬は本家に様々な要素を輸出するまでになったのである。その一例がモンキー乗りである。アメリカで開発されたこの騎乗方法は1895年にウィリー・シムズ(英語版)という騎手によって英国で披露されたが、この時は成功を収めることは出来なかった。その2年後に騎手トド・スローン(英語版)によって再び持ち込まれたこの騎乗法は瞬く間に本場の騎手の騎乗法をぬり変えてしまった。その他にも厩舎での扱い・調教のやり方・餌・蹄鉄などの要素がアメリカからイギリスにもたらされた。ただしドーピングというよろしくない要素もまた持ち込まれた。競走馬自体もアメリカから大量に持ち込まれており、これが悪名高きジャージー規則が成立する一因となった。
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