南北戦争から第二次世界大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 02:37 UTC 版)
「オーガスタ (ジョージア州)」の記事における「南北戦争から第二次世界大戦」の解説
元々、オーガスタの民衆は南北戦争の考え方を歓迎した。連合火薬製造所はアメリカ連合国が建設し完成させた唯一の恒久的建造物であった。2,000名以上のオーガスタ市民が戦いに参加したが、1863年の夏まではオーガスタ市民の心には戦争が入って来ていなかった。侵略を恐れてこの地域に逃亡してきた何千もの避難民がオーガスタの町を込み合わせ、住居や物資の不足を招いた。続いてウィリアム・シャーマン将軍の軍隊が接近していると言う脅威が訪れ、静かな町の通りに恐慌が走った。しかし、町が焼き払われることはなかった。 1828年、ジョージア州議会はジョージア医科専門学校の設立を公式に認め、市民病院の2つの部屋を借りて医者の養成が開始された。1873年、ジョージア大学との提携がなり、ジョージ大学の医学部となった。さらに1956年、ジョージア医科大学となった。1914年大学病院が医科大学の近くに設立され、町の高度に発達した医療地区の基盤となった。 多くの南部都市とは異なり、オーガスタの南北戦争後の生活は大変繁栄していた。20世紀の初めまでに、オーガスタは世界でも最大の内陸綿市場の一つになった。近郷には、キャンプ・ハンコックという新しい軍隊基地が第一次世界大戦の間に設営された。 第二次世界大戦の前に、アメリカ陸軍はリッチモンド郡近くに新しい砦、ゴードン砦を建設し始め、真珠湾攻撃の数日前に完成した。多くの新兵がこの砦に来て訓練を施され戦場に向かった。第二次世界大戦の後数ヶ月、ゴードン砦にいた多くのGIが帰郷し、地域社会における軍隊の重要さがほぼ終わったかに見えた。
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