南北戦争でのエンフィールド銃と弾薬包の使用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 03:54 UTC 版)
「エンフィールド銃」の記事における「南北戦争でのエンフィールド銃と弾薬包の使用」の解説
エンフィールド銃は、南北戦争で多量に投入され、南部北部問わずして使用された。北部では主力兵器であったスプリングフィールド銃(M1855、61、63)に次いで使用され、その性能の高さが評価された。南部では主力兵器として用いられた。本項では、エンフィールド弾薬包を多く使用し、採用を行おうとした南部に関して解説する。 1861年4月12日に、南軍が合衆国のサムター要塞を砲撃して戦端が開かれ(サムター要塞の戦い)、南北戦争が勃発した。1861年頃、南軍はたったの15000丁のライフルしか所持しておらず、それらの僅かがM1855ライフルマスケットであった。そして南部には大量の小火器弾薬を製造できる兵器廠も無かった。この事から、南部は武器や弾薬を入手できる相手としてイギリスを見つけ、早速購入を開始する。 南部の初めてのエンフィールド弾薬包の購入契約は、1861年8月6日であったとされており、イギリスの商業火薬メーカーのカーティス&ハーヴェイ(英:Curtis&Harvey)と契約を結んでいる。この契約で、.568口径のエンフィールド弾を内蔵した弾薬包を20万個輸入したが、これはカーティス&ハーヴェイ(英:Curtis&Harvey)が製造したものではなく、同じくイギリスの商業実包メーカーのエリーブラザーズ(英:Eley Brothers)によって製造されたものであった。 このエリーブラザーズ(英:Eley Brothers)製のエンフィールド銃の弾薬包は、イギリス軍で使用されている1859年型エンフィールド弾薬包と全く同じものであり、唯一の違いは、外側の弾薬包紙にエリーブローズ,ロンドン(英:ELEY BROS.LONDON)とエンボス加工が施されていた事であった。 弾丸は、圧縮製造(英:Swaging)されており、弾丸空洞の上底部分には、弾丸の口径がスタンプされていた。これらの弾薬包の購入によって、サウスカロライナ州の部隊や、多くの南軍義勇兵連隊は、エンフィールド銃と、とても高品質な英国製の弾薬包を装備することが出来た。 1862年4月6日から7日までに起こったシャイローの戦いで、多くのイギリス製エンフィールド弾薬包が使用された。ほとんどの南軍兵士は、旧式の滑腔銃で武装していたが、いくつかの連隊はエンフィールド銃で武装していた。この戦いでは、エリーブラザーズ(英:Eley Brothers)によって製造された弾薬包とは別のそれが南軍によって使用された。 それを発見したのは、北軍の軍人であったウィリアム・シャーマンで、彼はこの戦いで2回負傷しつつも、 師団を指揮して北軍の敗走の被害を抑えた。彼は、戦いが終わった後、戦場を歩き回っている時に、紙で出来た円筒が無数に散らばっていた事を発見する。これは、エンフィールド弾薬包の破り捨てられた部分であった。そして、この円筒には、長方形の紙が巻かれており、紙には、イー.&エー.ラドロー,バーミンガム(E.&A.LUDLOW,BIRMINGHAM)とスタンプされていた。南軍は、イギリスのバーミンガムにある商業実包メーカーであるイー&エー.ラドロー(英:E.&A.LUDLOW)によって製造されたエンフィールド弾薬包も使用していたのだ。これら2社のメーカーによって製造された.55口径、及び.568口径のエンフィールド弾と、エンフィールド弾薬包が、南北戦争を通して使用された。 南北戦争の戦いで、南軍によって使用されたエンフィールド銃弾薬包の、装填のし易さや、ファウリングを防ぐなどといったアドバンテージは、南軍の軍人たちに知れ渡る様になった。それらの軍人たちは、エンフィールド銃弾薬包の利点を高く評価し、採用するべきだと要求した。エンフィールド弾薬包の利点を評価した軍人の例として、テネシー陸軍(英:Army of Tennessee)の一師団の兵器下士官であるチャールズ・センプル(英:Charles Semple)大尉の手紙の一部分が存在している。 この師団では、上記の理由(ファウリング)によって銃器が詰まって使用できなくなった19の例があった。私が英国弾薬包(いくつかは私が所持している)を配備した全ての状況において、その様な結果が私に報告される事はなかった。そして、私が兵器下士官であった18ヶ月間の体験の中で、一つの例も聞いたことがない。 この様な評価を得たエンフィールド弾薬包の採用を強く提案した軍人は二人存在しており、一人は南軍の兵器長であるジョシア・ゴーガス大佐(英:Josiah Gorgas)、もう一人は、彼のアシスタントであったジョン・マレット大尉(英:John Mallet)であった。1862年5月頃からマレットはエンフィールド弾薬包の採用を強く提案し始めた。 彼は、圧縮弾丸製造機の設計図を手に入れるために、アラバマ大学の図書館から、アーサー・ブリスコー・ホーズ(英:Arthur Briscoe Hawes)著の「ライフル弾薬(Rifle ammunition)」のコピーを盗み出した。そして圧縮弾丸製造機の設計図を入手した事をゴーガスに手紙で伝えた。 マレットは、エンフィールド弾薬包を南軍のライフルマスケットに採用するべきだとゴーガスに提案した。1862年半ば頃、南部の兵器廠は様々な種類の弾薬を製造していたが、それぞれの品質が統一されておらず、弾丸は大きすぎて銃身内に装填が出来なかった。そのため、南軍の採用する弾薬をエンフィールド弾薬包のみに統一し、イギリスの様に、自国で弾薬包を機械によって製造できる事が望ましかった。 多くの南部の兵器廠はエンフィールド弾薬包の製造方法を知らなかったが、要請をすれば弾薬包のサンプルと詳しく書かれた説明書を入手する事ができた。しかし、殆どの南部の兵器廠は、エンフィールド弾薬包を製造する事はなく、1861年から1863年まではアメリカ式弾薬包(英:U.S. cartridge)を製造した。 このアメリカ式弾薬包は、アメリカ初のライフルマスケットである.58口径のM1855ライフルマスケットと共に採用された弾薬包である。3枚の紙で構成されており、形状や構造はそれまでの滑腔銃用の弾薬包と同じで、弾薬包の上部分には弾丸、下部分には火薬が内蔵されていた。この様な構造を持つ事から、装填方法もそれまでの滑腔銃のそれとかなり同じであった。 そして、この弾薬包の使用弾丸は、「バートン弾」と呼ばれるものであり、これは、ウェストバージニア州のハーパーズフェリーにあるハーパーズフェリー兵器廠の機械工であったジェームス・ヘンリー・バートン(英:James Henry Burton)によって1854年に発明された椎の実型弾丸で、弾丸先端が尖っており、弾丸側面にはタミシエ・グルーヴが3本彫られている。 この弾丸は、プリチェット弾とは違って弾丸空洞が比較的大きいが、弾丸空洞内に鉄製カップなどはなく、火薬の燃焼によって発生するガスの圧力で弾丸の裾部分が広がるようにして拡張する。そして弾丸にはタミシエ・グルーヴが彫られているため、 弾丸の重量中心より後部の空気抵抗が増加し、矢羽やバドミントンのシャトルコックと同様の理由で、安定性が増すことになった。このため、飛翔中の弾丸は安定し、本来の弾道から逸脱しにくくなり、有効性も大幅に増加した。そして、このタミシエ・グルーヴにはグリースを塗り込む事ができるため、紙に包まず裸の状態で装填しても、銃身にしっかりとグリースを塗り、ファウリングを防ぐ事ができた。 1854年10月に行われたプリチェット弾とのテストでは、バートン弾は、プリチェット弾と共にグリースを塗った裸の状態で装填され、射撃された。プリチェット弾はタミシエ・グルーヴが彫られておらず、グリースを直接塗った状態では、装填時に銃口にキツく嵌った事から、銃口に嵌めた際にはグリースが剥がれ落ち、銃身内に塗られず、発砲時にはファウリングを防ぐ事ができなかったた。そのため発砲するたびに命中精度は低下し、装填が難しくなった。 一方で、バートン弾はタミシエ・グルーヴがあるために、より多くのグリースを保持する事ができ、銃口に嵌めた際にもグリースは剥がれずに銃身内に塗られ、発砲時にはファウリングを防ぐことが出来た。そのため、精度の高さや、装填のし易さは、プリチェット弾のそれより明らかに優れていた。そのためバートン弾は.5775口径の弾丸としてM1855ライフルマスケットと共にアメリカ軍に採用された。 この「裸の状態でも、グリースが塗られてさえあれば問題なく装填できるバートン弾」によって、弾薬包は、エンフィールド弾薬包などにある「潤滑剤を保持し、装填時に銃身に塗り込む機能」を採用する必要がなかった。そのため、高い品質を問われるエンフィールド弾薬包とは違って、アメリカ式弾薬包は、品質に全く関係なく製造できるというアドバンテージを持っていた。この大きなアドバンテージが、多くの南部の兵器廠がアメリカ式弾薬包を製造した理由である。 しかし、バートン弾は発砲するたびに、完全にファウリングを防ぐ事ができず、銃は装填の容易さと精度の高さを維持する事が出来なかった。多くの手紙やレポートには、ライフルマスケットの装填が困難になり、兵士たちが木や石を使ってラムロッドを打ちつけて装填しようとしていた事に関する苦情が、北部又は南部の下士官が述べられていた。 そして、バートン弾は.577口径のエンフィールド銃に装填出来なかったため、1862年ごろには、多くの北部の兵器廠がバートン弾の直径を.5775口径から.574口径へと収縮した。この収縮によって、バートン弾はエンフィールド銃とスプリングフィールド銃のどちらにも装填できる様になったが、.58口径のスプリングフィールド銃に装填して発砲した際には、拡張してもライフリングに吻合する事ができず、それによって急速にファウリングを起こし、精度が低下した。このように、バートン弾にはさまざまな問題が発生していた。 ジョージア州メイコンにある研究所では、ホーズ著の「ライフル弾薬(Rifle ammunition)」の説明と図から圧縮弾丸製造機を作ろうとしていたが、上手くいっていなかったため、マレットはゴーガスにイギリスからアンダーソン弾丸製造機を購入するべきだと提案した。そして1863年7月23日には圧縮弾丸製造機を注文した。 この時、南部の兵器廠は、劣悪な鋳型や、不注意な鋳造、不正確な測定などで弾丸やエンフィールド弾薬包を高い品質で保持して連続して生産する事が困難であり、これらの弾薬によって兵士の装填が不可能になった報告がされていた。そのためゴーガスはこれらの問題を解決した。 しかし、エンフィールド弾薬包を製造するにはまだ問題があり、南部は、上質なホワイトペーパーを一貫して供給する事が出来なかった。この問題によって、南軍エンフィールド弾薬包の採用が脱線した。そのため、ゴーガスはイギリスから24インチ×195/8のサイズのホワイトペーパー2000連(1000000枚)を購入した。 しかし、時間が経つにつれ、弾薬包紙の問題は悪化していった。1863年4月に、マレットはいくつかの兵器廠で製造された弾薬包を確認し、紙の品質が良くない事を発見した。1863年夏頃の南部の兵器廠は鉛と火薬はあったが、品質の良い紙が無かった。そして、この頃には北軍による海上封鎖がより強固になっていたため、外国から紙を輸入することも困難であった。そして何とも運の悪いことに、1863年4月、5月頃には、南部のサウスカロライナ州にある2つの主力製紙工場が火災で無くなってしまった。これが南部にとって大きな打撃となり、同時にマレットとゴーガスによるエンフィールド弾薬包採用計画にも大きな支障をきたした。この様な問題が起きても、弾薬包紙をイギリスから購入してエンフィールド弾薬包の製造は続き、1863年から1864年にかけてエンフィールド弾薬包の製造量は増加した。 しかし問題は解決されておらず、弾薬包紙の品質は劣悪で、分厚く粗かった。そのため、.568口径のエンフィールド弾などは紙巻きにすると口径が.577口径より大きくなって、装填ができなかったり、弾薬包の結合部分が弱く壊れてしまったりした。 この問題の解決策として、エンフィールド弾の口径の収縮があったが、この解決方法は、劣悪な弾薬包紙でエンフィールド弾薬包を製造する場合のみに有効であり、南部は、木製プラグを製造する機器などが無かったため、厚さなどの品質の問題ない弾薬包紙で作った場合だと、弾薬包の口径が小さすぎて、木製プラグのないエンフィールド弾は、拡張が小さくてライフリングに吻合出来ず、精度低下とファウリングを起こしてしまうというデメリットがあった。 しかし、1862年8月の南部の兵器廠及び兵器研究所で順守される規則には、エンフィールド銃やスプリングフィールド銃で使用される弾丸の「適切な直径」が.562口径であることが確立された。この直径は妥協点であり、劣悪な弾薬包紙で包まれた時には装填できる可能性があり、品質の問題ない弾薬包紙で包まれた際にも、弾丸は十分に拡張してライフリングに吻合した。1863年頃には、いくつかの南部の兵器廠の弾丸は、.562口径へと標準化された。これによって、1863年6月から10月にかけての間に製造されたエンフィールド弾薬包の品質がかなり向上した。 南部で作られた弾薬包には様々な型が存在しており、初期の頃は、ホーズ著の「ライフル弾薬(Rifle ammunition)」に記されていた説明を元に製造していたが、いくつかの南部の兵器廠は、エンフィールド弾薬包を製造するための指導や、紙などの資材が不足していたため、この型に沿って弾薬包を作る必要はないと考え、エンフィールド弾薬包を、折り畳んだり、挟むなどして製造したり、エンフィールド弾をペーパーパッチなしでアメリカ式弾薬包に内蔵したりした。 しかし、1863年後半から1864年初頭にかけて、エンフィールド弾薬包の標準化が行われた。マレットは、かつて1863年に注文したアンダーソン圧縮弾丸製造機で製造するエンフィールド弾の断面図のスケッチをイギリスへと送った。このエンフィールド弾は、.562口径(14.27mm)で、全長が1.055インチ(26.8mm)、重量は530グレイン(約34グラム)であった。そして、木製プラグ製造機も注文された。 1863年12月には、マレットは1859年型エンフィールド弾薬包のプレートをボクサーから受け取り、南部の全ての兵器廠にこのプレートのコピーを与えた。1859年型エンフィールド弾薬包の製造を開始した事で、南部の弾薬の品質は大きく向上し、イギリスで作られたものと違いが全くないほどよく出来ていた。 そして、ゴーガスは、南部の全ての兵器廠にエンフィールド弾薬包を採用する様に伝えた。1864年3月7日、マレットはエンフィールド弾薬包は完璧に採用された事をゴーガスに報告した。しかし、ゴーガスは、1864年3月19日、マレットには秘密で、南部の全ての兵器廠エンフィールド弾薬包の製造を中断させた。理由としては、エンフィールド弾薬包を十分に製造出来るための準備(機械の調達、紙の購入など)に大変時間をかけた事や、多くの兵器廠が製造したエンフィールド弾薬包の品質は良いものではなかった事などが考えられているが、明確な理由は不明である。 エンフィールド弾薬包は、南北戦争で大量に使用されたものの、このゴーガスの判断によって、南部の敗北で南北戦争が終戦しても完全に採用される事はなかった。
※この「南北戦争でのエンフィールド銃と弾薬包の使用」の解説は、「エンフィールド銃」の解説の一部です。
「南北戦争でのエンフィールド銃と弾薬包の使用」を含む「エンフィールド銃」の記事については、「エンフィールド銃」の概要を参照ください。
- 南北戦争でのエンフィールド銃と弾薬包の使用のページへのリンク