南北戦争、1861-1864年
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「ナイアガラ (蒸気フリゲート)」の記事における「南北戦争、1861-1864年」の解説
ナイアガラ は直ちに南部の港湾の封鎖作戦の準備をし、5月10日にはチャールストン沖に到着した。2日後にはリバプールからの封鎖突破船を捕獲している。その夏の間はアラバマ州モービル湾で同様の任務についた。9月22日、ピケンズ砦(Fort Pickens)にてマッキーンはメキシコ湾封鎖艦隊の司令長官に任命された。ナイアガラ はペンサコーラのマックリー砦(Fort McRee)を防衛するため、南軍と対峙し、11月22日にはワリントンに着いた。この間、喫水線上を2回損傷している。1862年6月5日、修理のためにボストン海軍工廠に向かい。6月16日に任務を解かれた。1863年10月14日に戦列復帰。1864年6月1日、ニューヨークを出港し、南軍の戦闘艦の監視のためにヨーロッパに向かう。6月26日にアントワープを母港に定め、英国海峡、フランスの大西洋岸、ビスケー湾を哨戒した。8月15日にはポルトガル沖で南軍の艦艇を拿捕している。翌年2月から3月かけて、僚艦サクラメント号(USS Sacramento)と共に、スペインのフェロル沖で、南軍の装甲艦ストーンウオール号(CSS Stonewall)の出港を阻止する任務についていたが、これには失敗しリスボンへの逃走を許した。なお南北戦争終了後、ストーンウオール号は一旦米国海軍に編入された後幕府海軍に売却され「甲鉄」と命名されるが、戊辰戦争の勃発により米国は引渡しを拒否。結局明治政府が買取、「東艦」として初期の帝国海軍の一翼をになった。 ナイアガラ はヨーロッパ艦隊の一員として哨戒任務につき、8月29日カディスを出港、9月20日にボストンに戻った。9月28日に任務完了し、1885年5月6日に売却されるまで、そのままボストン海軍工廠にあった。
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