南北対立の中で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:30 UTC 版)
中華民国が成立し、黄興が南京臨時政府において陸軍総長に就任すると、李書城は総統府秘書処軍事組長兼陸軍部顧問官に任命された。まもなく、黄興に随従して北京入りし、陸軍中将銜を授かり、総統府軍事処次長に任命された。 1913年(民国2年)、二次革命(第二革命)でも孫文・黄興らに与したが、敗北して日本に亡命している。翌年、黄興に随従してアメリカに向かい、反袁世凱の宣伝と活動費収集に取り組んだ。護国戦争が勃発すると、黄興の命により李が先に帰国する。しかし上海に到着した黄興が重病となったため、李は上海に戻り、これを看病・世話したが、甲斐なく黄興は死去した。ほぼ同時期に、袁も死去したため、李は北京に向かい、いったん総統府顧問に就任している。 1917年(民国6年)、孫文が護法運動を開始すると、李書城も南下してこれに参加する。湘西防務督弁兼援鄂軍総司令に任命され、湖南省で北京政府軍と戦った。南北が一時停戦すると、護法軍政府軍事委員会委員等に異動している。1920年(民国9年)、李は上海に戻った。 なお翌年7月、中国共産党の第1回代表大会は、李書城の上海の邸宅で行われた。これは、弟の李漢俊が共産党の創設活動に関与しており、李書城もこれを黙認していたことによる。この年に李書城は、北京政府派の湖北督軍王占元の追放活動を画策し、これを成功させた。 1922年(民国11年)6月、黎元洪が中華民国大総統に復帰する。孫文の指示により、李書城は北京に戻って、総統府顧問・国務院参議に就任する。1924年(民国13年)10月には、馮玉祥の北京政変(首都革命)に参与し、一時的ながらも、黄郛内閣において陸軍総長に任じられた。 翌月、段祺瑞が臨時執政として復権すると、李はこれを嫌って天津に逃がれ、引き続き馮と連携をとった。翌年、漢口で湖北督軍蕭耀南がデモ隊を武力鎮圧する事件が起きると、李は現地に向かい調査を行っている。
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