南北対立の激化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/02 10:26 UTC 版)
「バンベルク会議 (1926年)」の記事における「南北対立の激化」の解説
1924年12月20日に仮釈放されたヒトラーは、党の再構築と対立の解決に乗り出した。フィリップ・ボウラーとフランツ・クサーヴァー・シュヴァルツらの党官僚により党組織再編が行われ、ヒトラーは党の雑務から解放され、自由な行動が出来るようになった。その後は精力的な活動によって、1925年3月末までにヒトラーはバイエルン州にいるフェーダーを始めとする党員の掌握に成功した。4月にはかつての突撃隊(当時は偽装組織フロントバン)の掌握に乗り出し、実力者であったエルンスト・レームは政治活動からの引退を余儀なくされた。しかし元々ヒトラーの支持が薄い北ドイツにはこれらの影響が及ばず、シュトラッサーらに任せるほかなかった。 シュトラッサー派は労働者階級などに支持を広げ、新たな党員を獲得していった。ある地域では党員数が2倍から3倍になることもあった。この頃ヨーゼフ・ゲッベルスはグレゴールの秘書となり、有力な幹部の一人となった。拡大した北部の党は組織再編に反発し、党本部のあるミュンヘンを中心とする南部との対立を公然と主張するようになった。9月10日、グレゴールは北部の幹部を集めた会議をハーゲンで開催した。この会議では共産主義に近い経済政策の発表と、南部に対抗するための結束が議決された。彼らはヒトラーを南部の「邪悪な助言者」から切り離し、革命の指導者としてドイツを導いてもらおうと考えていた。
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