フォーティナイナーズとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > フォーティナイナーズの意味・解説 

フォーティナイナーズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/05 10:26 UTC 版)

1849年ゴールドラッシュチラシ

フォーティナイナーズ英語: Forty-niners,49ers)とは1848年アメリカ合衆国カリフォルニアでの発見にともない、翌1849年、金を求めてカリフォルニアに殺到した人々である。

新領土カリフォルニアでの金発見

モークラム川英語版で選鉱パンを用いて砂金を探す人を描いたイラスト

1845年3月、民主党ジェームズ・ポークアメリカ合衆国大統領に選ばれると、彼はその就任演説のなかで、メキシコ領であったネヴァダカリフォルニアニューメキシコの一帯、そして、独立国(テキサス共和国)であったがアメリカ人入植者の数が増加していたテキサス、さらにイギリスと共同統治していた北部太平洋岸の「オレゴン・テリトリー」と称される地域(現在のオレゴン州ワシントン州アイダホ州にわたる地域)の獲得を訴えた[1][注釈 1]

英米共同領有地であったオレゴン地域では肥沃な農地や毛皮獣を求めるアメリカ内部からの移住者が増加し、1846年永年の要求を貫いてイギリスとの間にオレゴン協定を結び、北緯49度をもってイギリス領カナダとの国境線を確定させた[3][4][注釈 2][注釈 3]

アメリカ人移住者たちによる併合要求のあったテキサス共和国では、1845年、ポークの就任を待たずに議会で併合が承認され、就任後正式にテキサス併合がなされた[1][4][6][注釈 4]。テキサスがアメリカ領になったことからアメリカ・メキシコ両国間に国境紛争が生じた[3]。メキシコは国境線をヌエセス川と主張したが、ポーク大統領はより南のリオグランデ川であると主張した[7]。ポーク政権はメキシコに対し、テキサス領のさらなる拡大を認めること、カリフォルニア・ニューメキシコを2,500万ドルでアメリカに譲渡すること、この2点を要求し、それをメキシコ政府が拒否したことから、1846年5月、米墨戦争が勃発した[1][3]。こうした背景には、アヘン戦争以降、英仏両国だけでなくアメリカもまた中国貿易への進出を企図し、その観点から太平洋沿岸の貿易港確保を求める声がしだいに高まっていたことが挙げられる[4]ジョン・フレモントは西部を探検してカリフォルニアを占領し、そこで独立運動を扇動した[6]

米墨戦争は、明らかにアメリカ側の挑発によってはじめられた戦争であった[1][6]。ポーク大統領は、ウィンフィールド・スコットを指揮官とする大軍をメキシコに送り込んだ[1][4]。スコット将軍は1847年9月にメキシコシティを陥落させて、この戦争の勝利に貢献した[3][6][7]。米墨戦争の勝利と、それにつづく1848年2月2日のグアダルーペ・イダルゴ条約によって、アメリカは、1,825万ドル(1,500万ドルの現金と325万ドルの債務放棄)と引き替えにメキシコ割譲地を得た[3][7]。これは、現在のカリフォルニア州ネバダ州ユタ州の全域とアリゾナ州の大部分、およびニューメキシコワイオミングコロラド各州のそれぞれ一部にあたる広大な領域である[3][注釈 5]。アメリカはこれにより、アジア貿易の拠点たるサンフランシスコを確保した[4]

1848年の条約で拡大した領土(矩形で囲んだ部分)
オレゴン地域(オレンジ色部分の北西側一部)は州制がしかれず準州となった。

この頃、メキシコ領カリフォルニアに入植していたドイツ生まれの農場主ジョン・サッターがサッター砦を建設し、ニュージャージー州生まれの大工ジェームズ・マーシャルを使用人として用いていた[5][8][注釈 6]。マーシャルは水力による製材を考え、サクラメント東方コロマのアメリカン川英語版水車小屋を建設し、サッターの製材所建設計画を助けた[8]。そして、グアダルーペ・イダルゴ条約成立直前の1848年1月24日、マーシャルはアメリカン川の川底に砂金を発見したのである[8]。この時期が微妙で、もし金発見がもっと早ければメキシコからの干渉はきわめて厳しいものであったことが予想され、戦争のなりゆきも大きく異なるものとなった可能性がある[8]。マーシャルの報告を聞いたサッターは当初、これを元手にした農業経営拡大を考え、当初は緘口令をしいて秘密にしていたが噂はすぐに広まった[8]。当初、乾燥した岩と砂ばかりの荒蕪地で有用性に欠くという見方さえあった新領土であったが、金発見によって事態が一変したのである[9]。サクラメントでの金発見の報告はやがてポーク大統領のもとにも届き、この年の12月、大統領はアメリカ連邦議会で新天地カリフォルニアでの金発見の事実を正式に発表した[8]。これにより、年が明けた1849年にはカリフォルニアに金鉱脈目当ての山師や開拓者、すなわち「フォーティナイナー(49年者)」が大量に押し寄せることとなった[3][8][9]。空前の「ゴールド・ラッシュ」が、ここに現れたのである[3][8][10]

東部からの3ルート

アメリカ東部からはおもに次の3つのルート、

  1. 船で南アメリカ大陸南端を経由
  2. 船でパナマ地峡を経由
  3. 幌馬車で陸上を移動

でカリフォルニアに到着した。それまで、ネイティブ・アメリカン以外のカリフォルニア住民は1,000人足らずだったといわれるが、一攫千金を夢見る人の多くが西をめざした[8]。ただし、旅行途中で病死した者も多かったといわれる[11][注釈 7]1849年の一年間だけでも10万に近い人々がカリフォルニアに到来した[8]。当時の記録をみると、農民労働者商人乞食牧師までもがカリフォルニアへなだれ込んだことが記されている[注釈 8]。「アメリカン・ドリーム」の言葉があるが、その実一攫千金を夢見るアメリカの国民性は、カリフォルニアでの金発見から少なからず影響を受けたと指摘される[8]

成功者

サミュエル・ブラナン

彼らは、アメリカ国内の一般労働者の日給が1ドル程度だった当時にあって毎日10~20ドルを稼ぎ出したとさえいわれている。しかし、フォーティナイナーズで成功した人はおらず、むしろ多くは破綻したとされる[11]。というのも、当時のアメリカン川の金鉱はほぼ露天掘りに近く、誰もが金を採取できたために、逆に一度にあまりにも多くの人々が殺到して生活物資の供給不足を招きインフレーションが起こったせいである。小麦の価格は40倍にも上昇し、土地価格では16ドルだったところが4万5,000ドルに跳ね上がった例もあったほどである。

成功者はむしろ、フォーティナイナーズの周辺で生まれた[11]。有名なのがジーンズで有名なリーバイス創業者のリーバイ・ストラウスである[11]。彼は金を探しにやってきた人々に丈夫 なキャンバス地の作業用ズボンを提供した[11]。また、テント荷馬車を作るためにキャンバス帆布を準備し、採鉱者達に販売することで財をなした。

実業家でジャーナリスト、著名なモルモン教徒でもあったサミュエル・ブラナン英語版は、自身が立ち上げた新聞メディアによってゴールドラッシュを喧伝し、シャベル金だらい長靴、テントなど金採掘に必要な道具を買い占め、それを仕入れ値の10倍以上という高額で販売することで巨利を得た[11]ヘンリー・ウェルズ英語版ウィリアム・ファーゴ英語版は、輸送手段や金融サービスを提供して利益を上げた。今日のウェルズ・ファーゴの始まりである。また、のちに「ビッグフォー」と呼ばれるうちの一人で、スタンフォード大学の創立者として知られるリーランド・スタンフォードは、サクラメントで鉱夫たちを相手に乾物や雑貨を販売する店をひらいて財をなした[11]

フォーティナイナーズはヨーロッパからの移民が多く、なかにはブドウ栽培とワイン醸造の知識をもつ者も少なくなかった。こうしたなかから名産としてのカリフォルニアワインが生まれている。金発見のニュースよりわずか3年で、カリフォルニアにおけるネイティブ・アメリカン以外の人口は25万5,000人に達したといわれる[8]

結果・影響

サンフランシスコ港(1850年)
  1. フォーティナイナーズの到来は、カリフォルニアが早くも1850年に昇格する原因の一つとなった[9][10]。カリフォルニアの人口急増は、州への昇格をめぐって南部と北部の対立に拍車をかけることとなった[9][10][12]。それは半面、当時の自由州15、奴隷州15という上院における南北間のバランスを突き崩す問題だったからである[9][10]。カリフォルニアは北部からの移住者が多かったことから、自由州として昇格することを希望した[9]。しかし、当面は新たな奴隷州昇格の見込みはなかった[9]。激しい論争の結果、熟達の政治家ヘンリー・クレイらを中心にカリフォルニアが自由州として連邦に加入するかわりに、北部諸州にはよりきびしい奴隷逃亡取締法を施行するという「1850年の妥協」が成立した[9][10][12]。この妥協はやがて紛糾の度合いをむしろ増大させ、のちの南北戦争の伏線となった[12]
  2. ゴールドラッシュはカリフォルニアから西部各地に飛び火し、フロンティアラインは西から東へと進むこととなり、アメリカは大西洋から太平洋にまたがる大陸国家へと変貌し[9][13]大陸横断鉄道の完成を促した[10]。人口数百人だったサンフランシスコは金の搬出港となって活況を呈した[9]
  3. フォーティナイナーズは、白人の西漸運動(東部の大西洋岸から西方地域への拡張・開拓・移住の運動)をいっそう加速し、平等指向とフロンティア・スピリットを特質とする西部社会の形成に重要な役割を果たしたが、依然としてネイティブ・アメリカンアメリカ・インディアン)への圧迫はつづき、やがて彼らは以前にも増して追いつめられていった[14][注釈 9]

補説

脚注

注釈

  1. ^ このような政策ないし政治的主張を支える発言として有名なのが、ニューヨークのジャーナリスト、ジョン・オサリヴァンが『デモクラティック・レヴュー』1845年7月・8月合併号掲載の論説「併合」のなかの、

    年々増加していく何百万ものわが国民の自由な発展のために、神によって割りあてられたこの大陸に伸び広がっていくというわれわれの「マニフェスト・ディスティニー(明白な運命)」

    という言葉であった[2]。この見解は領土膨張の機運をおおいに高めた[2]

  2. ^ アメリカの北緯49度以南の領有について、イギリスは当初アメリカの要求に応じなかったが、しだいにアメリカの要求はエスカレートし、1843年には北緯54度40分まで要求する意見さえ出て「54度40分か戦争か」というスローガンさえ唱えられた[5]
  3. ^ オレゴン協定締結とともにイギリスでは穀物法が廃止され、アメリカではウォーカー関税引き下げ法が成立した[4]。これにより、南北戦争直前まで、英米両国間には自由貿易主義にもとづく協調関係がつづいた[4]
  4. ^ テキサスはメキシコ時代に奴隷制度を廃止したが、アメリカ南部の一州となったことで奴隷制度が復活した[6]
  5. ^ 結果が上首尾だったことで、当時のほとんどのアメリカ人はこの戦争の原因追及をおこなわなかったが、エイブラハム・リンカーン(当時、下院議員)のほか、1, 2名はポーク大統領の政治姿勢を批判した[6]
  6. ^ カリフォルニアはローソクの原料となる牛革牛脂の生産地だったので、東部人のなかにはこれに着目し、移住する者がいた[5]
  7. ^ ある統計によれば、この時代にカリフォルニアで亡くなった人は12人に1人の割合であったという[11]。これは、病気や事故で旅行中に亡くなった人ばかりでなく、カリフォルニアに着いてから飲酒にふけったり、トラブルから発砲沙汰に発展し、それにより亡くなった人も含んだ数字である[11]
  8. ^ 一攫千金を夢みた人々が急増したことによって治安維持が必要になったサンフランシスコでは、無法者を取り締まるために住民による自警団が1851年と1856年につくられたといわれる[9]。これは入植に対して警察組織の整備が追いつかないアメリカの辺境地帯における伝統ともいえるが、自警団による保安活動は冤罪リンチの発生といった危険もはらんでいる[9]
  9. ^ ゴールド・ラッシュ時にカリフォルニアで殺害された先住民は10万人におよぶといわれている[14]。また、ショショーニ族は1840年代以降の入植者たちが地元の食料資源を食べつくしたため深刻な飢餓にみまわれ、1862年にはバノック族英語版パイユート族英語版との同盟が成立して西部開拓者に対する軍事行動へと発展した[14]。1872年から翌年にかけてはモドック族英語版によるモドック戦争がおこり、これは先住民による最後の戦争となった[14]

出典

参考文献

書籍

論文

  • 飯塚英一「十九世紀半ばのアメリカ ―メキシコ戦争とゴールドラッシュ―」『帝京大学宇都宮キャンパス研究年報人文編』第19号、帝京大学宇都宮キャンパス、127-142頁、2013年12月。 NAID 40019945022 

関連文献

  • 野口悠紀雄『アメリカ型成功者の物語―ゴールドラッシュとシリコンバレー』新潮社〈新潮文庫〉、2009年4月。 ISBN 978-4101256283 

関連項目

外部リンク


フォーティナイナーズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/08 03:23 UTC 版)

デイビッド・エイカーズ」の記事における「フォーティナイナーズ」の解説

2011年7月29日サンフランシスコ・フォーティナイナーズ3年契約結んだ8月12日ニューオーリンズ・セインツとのプレシーズンゲームでは59ヤードFG成功させた。9月18日ダラス・カウボーイズ戦ではキャンドルスティック・パーク史上最長55ヤードFG成功させた。11月13日ニューヨーク・ジャイアンツ戦では52ヤードFGを含む4本のFGオンサイドキック成功させ勝利貢献した第10週までで50ヤード上のFGを5回すべて成功させた。第16週シアトル・シーホークス戦では4本のFG決めて2005年アリゾナ・カージナルスニール・ラッカーズ作ったNFL記録更新した2012年第1週ではNFL最長記録に並ぶ63ヤードフィールドゴール成功させた。しかし、シーズン通じてFG成功率69%(42本中29成功)とキャリアワーストの成績終わったレギュラーシーズン最終週終了後ナイナーズトライアウト行い、ビリー・カンディフをロースター加えた

※この「フォーティナイナーズ」の解説は、「デイビッド・エイカーズ」の解説の一部です。
「フォーティナイナーズ」を含む「デイビッド・エイカーズ」の記事については、「デイビッド・エイカーズ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「フォーティナイナーズ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フォーティナイナーズ」の関連用語

フォーティナイナーズのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フォーティナイナーズのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフォーティナイナーズ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのデイビッド・エイカーズ (改訂履歴)、カリフォルニア・ゴールドラッシュ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS