甲鉄とは? わかりやすく解説

こう‐てつ〔カフ‐〕【甲鉄】

読み方:こうてつ

甲鉄板」の略。

甲鉄艦」の略。


東艦

(甲鉄 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/16 18:39 UTC 版)

東艦
アメリカ軍艦ストーンウォール(後の東艦)[1]
基本情報
建造所 アルマン兄弟造船所[2](フランスボルドー[3])
運用者  アメリカ連合国海軍
 大日本帝国海軍
艦種 甲鉄艦[4]
軍艦(戦艦)[3]
艦歴
起工 1863年[4]
進水 1864年6月21日[4]
竣工 1864年10月25日[4]
除籍 1888年1月28日[5]
その後 解体
改名 甲鉄艦 → 東艦
要目
排水量 計画:1,358.43 トン[6]
または 1,800 トン[7]
全長 60.00 m[6]
水線長 55.70 m[8]、または55.78m[6]
垂線間長 47.44 m[6]、または47.77m[8]
最大幅 10.00 m[6]
深さ 5.20 m[6]
吃水 平均:4.40 m[6]
または15 ftin (4.72 m)[9]
ボイラー マゼリン式石炭専焼缶 2基
(管入 2基[7][10])
主機 マゼリン式水平直動レシプロ 2基[11]
または 直立直動機械[7]
推進 4翼スクリュー、2軸[7]
出力 1,200 IHP[3][7][12]
帆装 帆面積:750 m2[13]
速力 常用: 10.5 kn (19.4 km/h)
試運転:10.8 kn[11]
燃料 石炭:常備95トン[10][14]
満載200トン[11](または700,000ポンド[7])
航続距離 1,200海里 (2,200 km) / 9ノット[11]
乗員 慶応4年1月定員:49名[15]
1873年10月定員:135名+鍛冶長2名[16]
1883年8月定員:130名、練習員約100名[17]
兵装 竣工時[18][19]
(口径28 cm)300ポンド・アームストロング前装式滑腔砲 1門
(口径12.7 cm)70ポンド・アームストロング前装式ライフル砲 2門
1871年[20]
(27.9 cm)300ポンド前装滑腔砲 1門
パロット16.5 cm前装ライフル砲 4門
6連装ガトリング砲 1基
装甲 舷側:125-90 mm錬鉄 +1.25 in (32 mm) 鉄板[11]
ケースメート: 140-102 mm[11]
その他 信号符字:GQBU(1886年-)[21]
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東艦(あずまかん、前名 甲鉄艦〈こうてつかん〉)は、日本海軍軍艦。浅瀬で使用される衝角と大砲3基が備わっており、外洋航行能力を持ちながら装甲で覆われた日本の軍艦で、日本海軍の草創期の艦である。

元々は南北戦争中に南軍海軍が発注した艦であり、仮称艦名は「スフィンクス」であった。北軍の抗議により引き渡しができなくなるとデンマークへ売却となるも、戦争で敗勢となったデンマークに引き取り拒否された。次いで南軍の手にわたってキューバへ向かったが、南北戦争終結によりキューバ、続いてアメリカ合衆国へ売却され、それを日本が購入した。1874年の佐賀の乱台湾出兵に就役したが、1877年の西南戦争ではほとんど使用されず、1888年に廃船となった。


艦名の吾妻吾嬬などと共に全てあづま(あずま)と読み、京都から東のを指す汎称になる[5]甲鉄艦(こうてつかん)は、一般には鋼鉄製装甲の軍艦(装甲艦、Ironclad)を指す言葉で固有名詞ではないが、幕末から明治にかけての日本史でこれが用いられる時は本艦を指すことが多い。

艦型

竣工当時の本艦の装甲配置を斜線で示した図。艦首水面下に突出した衝角が特徴的である。

マスト2本のいわゆるブリッグと呼ばれる船である。左は本艦の装甲配置を示した図である。本艦の基本構造は艦首に鋭い形状の衝角(ラム)を持つ木造船体に2本の帆走用マストと一本煙突を持つ装甲ブリッグである。船体上の2本のマストには本格的な帆走設備が整えられており、蒸気機関が発明されたとはいえ機関技術の信頼性がこの時期では未知数で、長期航海時には帆走を行うのが普通であり、本艦の帆の総面積は750平方メートルもあった。艦首水面下の衝角は艦名の「スフィンクス(Sphinx)」の名の通り、スフィンクスの顎のように艦首の水線面から、先端部を鉄で皮膜した衝角が水中に7 mも突出していた。

これは、後の「リッサ沖海戦」でも行われた「衝角攻撃(ラミング)」を行うために特化した設計である。衝角攻撃とは、大砲が発明されていない時代に敵艦の船体を効果的に破壊するために舳先を相手の舷側に突っ込ませて破壊する攻撃方法で、追突した時の衝撃よりも自艦をバックさせて舳先を引き抜いた時に出来る大破口からの浸水により短時間で相手を撃沈できる戦法である。大型の大砲が開発されたとはいえ、この時期の砲弾は性能が低く、効果的に敵艦を無力化するには衝角攻撃が主流であった。

他に船体形状で他にも目を引く艦尾形状も特徴的で、当時としては非常に珍しかったクルーザースターン(巡洋艦型船尾)を採用していた。水面下では、舵と推進軸の周辺形状にはツイン・スケグを採用していた。ツイン・スケグとは、船底部からスクリュー軸を伝うように垂直に伸ばされた鰭状の構造物を設け、そのままスクリュープロペラの背後に主舵を配置する形式のことで、スクリューで生じた水流の真後ろに舵が配置されるために舵効きが良く、また、スケグがスクリュー軸を囲って守るのでスクリューに異物が巻きついて行動不能になるのを防ぐ効果もあった。

兵装

竣工当時の本艦の武装配置を示した図。ピポッティング・スライド・キャリッジの配置を示している。船体断面図の前述の艦尾のダブル・スケグが特徴的である。

本艦の主砲にはアームストロング砲を採用している。艦首砲郭部には300ポンドアームストロング前装式滑腔砲(口径27.9 cm)を単装砲架で1基を配置し、重量136 ㎏の砲弾を撃つことが出来た。船体中央砲郭部に70ポンドアームストロング前装式ライフル砲(口径12.7 cm)を単装砲架で片舷1基ずつ計2基を装備し、重量32 kgの砲弾を撃つことが出来た。しかし砲弾の性能が良くなく、火薬庫等に命中しないかぎり敵艦を大破させるのは難しかった[22]。後に米国製のパロット砲に備砲を換装されている。

ドックで整備を受ける竣工当時の本艦を艦首から撮影した写真。男性が座っている砲門部により艦首方向への砲撃を可能とした。

砲郭部の床面にはピポッティング・スライド・キャリッジ(Pivotting Slide Carriage)と呼ばれる円弧状のレールが敷設され、その上に置かれた砲架を旋回・移動させることにより、砲郭から砲身を出した際に砲門を支点として砲尾部を扇状に動かすことにより広い射界が得られた。これにより少ない門数でも迅速に火砲を敵艦に向けられる工夫であった。

ドックで整備を受ける竣工当時の本艦の艦首を後方から撮影した写真。砲を使用しない時は砲門は蓋で閉じられた。

さらに砲架の設計も新型で、従来の砲架の仰角は10度程度であったが、本艦の物はスライド・キャリッジと呼ばれる形式の砲架により、仰角は一挙に倍以上の25度が可能となり射程の延伸が可能となった。また、砲廓に設けられた砲門には戦闘時に開口部から敵弾が飛び込むのを防ぐために装甲板と同じ材質の蓋が取り付けられ、装填時に開口部を塞いだ。

装甲

本艦の防御要求は対15インチ砲防御を目標として設計され、北軍の持つあらゆる種類の艦砲に対して貫通されない防御力が要求された。

砲郭部の形状は前後ともに横方向に広い楕円形をしており、当時の低い工作技術で複雑な曲線の船体に装甲板を満遍なく貼り付けるフランスの建艦技術の高さが窺える。船体甲板上の艦首側と中央部に主砲を収める楕円筒形の砲郭(ケースメイト)が設けられた。砲郭部には船体構造部とは別個に装甲板を装着するためのコーキングと呼ばれる緩衝材が構造材から上に貼り付け、その上にアーマーパッキング(砲弾が命中した際にショックを和らげるための緩衝材)として厚さ80 mmのチーク材が更に貼り付けられた。このアーマーパッキングに装甲板を専用のボルトで螺子止めして装着される。本艦の砲郭部には装甲板の材質は粘り気のある錬鉄製で前述のアーマーパッキングの上から厚さ102 mmから140 mmの装甲を貼った。同時期のデンマーク海軍の装甲艦「ペダー・スクラム」(1866年竣工、3,300トン)の砲廓部の装甲が120 mmであることを考えれば本艦は排水量が2倍の艦と同等の装甲厚を持っていたことがわかる。

この当時の艦体の防御様式は水線部は装甲板を舷側の全周に装着する全体防御方式が主流であった。本艦は高さ2.7 mの装甲板を水線部を0として上方向に1.5 m、水線下に1.2 mもの範囲で舷側を覆っていた。防御厚は船体中央部は125 mmで艦首と艦尾の水線末端部に向かって90 mmにテーパーした。さらに、その装甲板の上から厚さ1.25インチ (32 mm) の装甲を貼る複合装甲を採用していた。

後に北部合衆国軍が開発したモニター艦モニター」(USS Monitor)の搭載砲は11インチ (280 mm) 砲でしかないことを考えれば、本艦の防御能力は高い物であった。

機関

本艦の主機関はル・アーヴルのマゼリン鉄工所でボイラーとレシプロ機関が共に製造されて搭載された。マゼリン式チューブラーボイラー2基とマゼリン式水平型レシプロ機関2基2軸が組み合わせられ、推進機関であるレシプロ機関は1基あたり600馬力の出力があり、それを2基搭載されたので最大出力は1,200馬力を発揮できた。推進軸に取り付けられたスクリュープロペラは一枚が推進軸に対して斜め45度に傾けられた長方形の板状の4枚プロペラで直径は約3.6 mであった。本艦は公試において最高速力10.8ノットを発揮し実用速力は10.5ノットとした。同時に燃料消費量から計算して石炭200トンを満載して9ノットで1,200海里を航行できると計算された。

艦歴

竣工当時の本艦を右舷から描いた絵。
プロシア(ドイツ)に売却された姉妹艦「プリンツ・アダルベルト」

アメリカ南北戦争中の1863年に、南軍の武器調達委委員ジェームズ・バロックがエジプトからのものであると偽装してスループ4隻と装甲衝角艦2隻をボルドーのアルマン社に発注した[23]。この装甲衝角艦の一隻が仮称「スフィンクス(Sphynx)」である[23]。これらは結局北軍の抗議により引き渡しできなくなり、「スフィンクス」は1864年3月31日に第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争中のデンマークへ80万クローネで売却する契約が成立[24]。「ステーアコザ(Stærkodder)」と名付けられた[25]。1864年6月21日に進水し、11月にコペンハーゲンに着くが、敗戦確実となっていたデンマークは受け取とらなかった[25]。その後、「オリンダ(Olinda)」と改名された[25]。ボルドーに戻されることとなった「オリンダ」だが、1865年1月6日に南軍兵士が乗り込み、「ストーンウォール(Stonewall)」と改名されて1865年5月14日にハバナに着いた[25]。しかし、南北戦争終結により16000ドルでキューバへ売却され、次いでアメリカ合衆国が購入した[25]

購入

「ストーンウォール(CSS Stonewall)」時代の写真。

ロバート・B・ファン・ファルケンブルグが1866年にアメリカ公使に着任して売却を斡旋した。慶応3年(1867年)に小野友五郎を代表とする江戸幕府の訪米使節がアメリカに「ストーンウォール(CSS Stonewall)」買取を約束した。

一方、翌慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、新政府側もストーンウォールを買い取りたいと言い出したが、旧幕府側がこれに反発。横浜に至ったアメリカ側は、戦争の決着がつくまでストーンウォールをどちらにも売る気はないと、局外中立を宣言した。しかし奥羽越列藩同盟が崩壊し、榎本武揚ら旧幕府海軍蝦夷地へ渡って所謂「蝦夷共和国」を樹立させた頃には、明治政府が新たなる政府であることを認めて局外中立を撤廃した。

新政府はまだまだ財政が厳しかったが、明治2年(1869年2月3日にストーンウォール(甲鉄艦)購入に踏み切った。

戊辰戦争

旧幕府海軍は旗艦の開陽丸を座礁で失った上、明治政府のストーンウォール(甲鉄艦)購入の知らせが箱館に届いた。危機を感じた榎本らは軍議の上、同艦への移乗攻撃(アボルダージュ)による奪取作戦を計画、宮古湾海戦が起こった。榎本らは甲鉄艦の装甲を貫ける新型砲弾を開発しており、船に積んでいたと言われるが、天候などの不運も重なりその威力は試せないまま奪取に失敗した。

函館湾海戦時の東

明治2年3月8日(1869年4月19日)、甲鉄、陽春丸春日丸飛龍丸第一丁卯戊辰丸晨風丸豊安丸の7隻が品川を出港、函館へ向かった[26]。本艦は宮古湾海戦で旧幕府軍艦を追撃した後、青森に待機し、同年4月9日の新政府軍上陸に際して箱館湾に出撃。箱館湾海戦を経て旧幕府軍の降伏に至った。

日本海軍

明治3年7月(1870年8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために太政官は7月28日(新暦8月24日)に小艦隊3隊を編成、甲鉄乾行の2隻は中島四郎甲鉄に乗艦)の指揮で横浜港に派遣された[27][28][29]。翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた[30]

明治4年5月(1871年6月から7月)日進、甲鉄、乾行第二丁卯龍驤富士山第一丁卯小艦隊を編制[31]真木長義中佐が日進、甲鉄、乾行第二丁卯4艦の指揮をとった[32]。10月28日(1871年12月10日)、海軍規則の制定により甲鉄艦は三等軍艦(中艦)に分類[33] された。12月7日(1872年1月16日)には艦名が甲鉄艦から東艦に改められた[34][35]。このページでは、以降と記す。

明治5年

明治5年4月12日(1872年5月18日)、日進、東、鳳翔が艦隊に編入された[36][37]。5月2日(1872年6月7日)、は艦隊から除かれた[36][38]

10月5日(1872年11月5日)、艦船等級の改正により三等以上は大艦に分類されるが、は三等軍艦(中艦)に分類された[39][40][41]

1873年

1873年(明治6年)1月13日、は艦隊に編入された[42][43]。2月13日、各港に常備艦を配置することになり、日進横浜港に配置されることになった[44]。日進が修復艦となったため、4月22日にの常備港は横浜港から品川に変更された(横浜港は雲揚が常備艦となる)[45]。6月30日時点で中艦隊雲揚日進春日龍驤、東、鳳翔筑波の7隻で編制していた[42]

1874年

佐賀の乱

1874年(明治7年)2月9日、は品川を出港した[46]。2月13日、佐賀の乱の鎮圧のために、雲揚の九州回航が命令された[47]。6月3日、は長崎から品川に帰着した[46]

6月30日時点の中艦隊雲揚日進春日龍驤、東、鳳翔第二丁卯で編制されていた[48]

台湾出兵

7月30日、は龍驤の清回航に同行することになり、同日龍驤に先立ち出港し8月15日長崎に到着した。20日に暴風のために損傷し9月14日長崎発、20日に横須賀に帰港した[49]。または、8月19日に長崎港に停泊中に台風により沈没したが、程なく浮揚されて横須賀造船所で復旧修理の上、復帰した。

1875年

1875年(明治8年)3月5日、「清輝」の進水式に明治天皇が臨席となり、横浜港から横須賀港まで「龍驤」に乗艦した[50]。この時「」「雲揚」が供奉艦として、また「大坂丸」も帯同した[50]。翌6日の帰途で明治天皇は灯台寮附属の「明治丸」に乗船、「龍驤」「雲揚」が前衛、「東」「大坂丸」が後衛として護衛任務に就いた[50]

6月30日時点で中艦隊は雲揚日進春日龍驤、東、鳳翔第一丁卯で編制されていた[51]。10月28日、艦隊は編制を解かれ、は艦隊から除かれた[51]。同日、日本周辺を東部と西部に分け、東部指揮官は中牟田倉之助少将、西部指揮官は伊東祐麿少将が任命され[52]龍驤、東、鳳翔雲揚富士山摂津高雄丸大坂丸は東部指揮官所轄となった[52]

1876年

1876年(明治9年)4月8日(または4月4日[53])、三等軍艦(小艦)に分類された[41][54]

7月20日、は行幸の迎えとして金田湾に回航[55]、7月22日に横浜に帰港した[55]

1877年

1877年(明治10年)1月24日、行幸出発に際し、鳳翔孟春千代田形の4隻で小艦隊を編成して金田湾まで見送り、帰途は蒸気機関運転での艦隊運動訓練を行った[56]

西南戦争

1877年(明治10年)の西南戦争では、瀬戸内海の警備任務についた。2月19日、東、日進浅間の3隻に神戸港回航が令達され[57][58]は同日午後6時に横浜港を出港した[58]。8月19日午後2時、は神戸港から横浜港に帰港した[59]

修理

9月23日に横須賀に回航[60]、9月25日から横須賀造船所で修理を行った[61]。翌1878年(明治11年)中はボイラー他の修理のために横須賀に留まった[60]

1878年

1878年(明治11年)2月19日、東海鎮守府所轄のを修復艦とし、横須賀造船所所轄に変更された[62][63]

1879年

1879年(明治12年)5月3日に修理は完了した[64]。なお『海軍省報告書』の艦船修復の項では、8月31日修理完了とされている[61]

常備艦

それより前の4月30日、東は東海鎮守府所轄常備艦と定められ[65]、5月7日横浜港に帰港した[64]。5月22日横須賀に回航、同地で塗装塗り替えをし、6月12日横浜に帰港した[64]。6月23日横浜を発着し艦隊訓練を行った[64]コレラ流行により、船舶検査をするために7月3日横須賀に回航した[64]。7月5日横須賀出港、以降は天城と交代しながら東京湾内、横浜、横須賀、浦賀で碇泊を繰り返し、8月20日横浜港に帰港、8月26日品川沖に回航した[64]。10月1日品川発着で艦隊訓練を行った[64]

修理

10月9日横須賀に回航[64]し12月24日に入渠[64]、25日から修理を開始し[61]30日に出渠した[64]

1880年-1883年

1880年(明治13年)1月6日から14日まで入渠した[64]。11月11日まで、常備艦として横須賀港に碇泊した[66]

修復艦

11月12日に修復艦に指定された[66][67]

1881年(明治14年)6月29日から横須賀造船所で修理を行った[68]。また『海軍省報告書』によると、1879年(明治12年)12月25日から1881年(明治14年)8月22日まで横須賀造船所で修理を行った[69]

1883年(明治16年)6月21日に横須賀造船所で修理を開始した[70]

除籍

1888年(明治21年)1月28日除籍[5]

石川島造船所が浅草発電所の200kW発電機を製作する際に、「東」の装甲板を鉄心の材料として使用した[71]

その他

  • 本艦と混同されることがある「ストーンウォール・ジャクソン」号(CSS Stonewall Jackson)は1862年に配備され、同年自焼した南軍の外輪式河川砲艦である。

艦長

船将

艦長

  • (艦長代)福島敬典(福嶋彌太六) 大尉:明治4年5月17日[32][73](1871年7月4日) - 明治4年6月[74]
  • 伊東祐亨 少佐:1872年12月14日 - 1875年11月10日[75]
  • 澤野種銭 少佐:1875年11月10日[76] -
  • 沢野種鉄 中佐: - 1878年4月8日[77]
  • (艦長代)松村正命 少佐:1878年4月8日[77] -
  • 井上良馨 中佐:1879年8月19日 - 1880年6月14日[78]
  • 山崎景則 少佐:1880年6月14日 - 1881年7月7日[79]
  • 瀧野直俊 中佐:1883年8月16日 - 1885年11月7日[80]
  • 国友次郎 中佐:1885年11月7日[81] - 1886年6月23日[82]
  • 伊地知弘一 大佐:1887年4月19日[83] - 1887年6月11日[84]
  • 国友次郎 大佐:1887年10月27日[85] - 1888年1月28日(旧東艦残務取扱[86]

脚注

注釈

出典

  1. ^ #日本海軍全艦艇史p.489、No.1232の写真解説。
  2. ^ #日本の戦艦(上)2001p.21
  3. ^ a b c #日本近世造船史明治(1973)p.81
  4. ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.26
  5. ^ a b c #艦船名考(1928)pp.16-18「東(初代) 吾妻(二代)あづま Aduma.」
  6. ^ a b c d e f g #日本の戦艦(上)2001p.11
  7. ^ a b c d e f #帝国海軍機関史(1975)別冊表1
  8. ^ a b #日本の戦艦(上)2001p.106
  9. ^ #日本近世造船史明治(1973)p.171
  10. ^ a b #日本の戦艦(下)2001p.42
  11. ^ a b c d e f #日本の戦艦(上)2001p.16
  12. ^ 図示馬力(IHP) 元綱 11頁
  13. ^ #日本の戦艦(上)2001p.12
  14. ^ 西村30頁
  15. ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻pp.201-202人、乗員定員表。 船将(代軍艦役)1人、 軍艦役竝勤方一等2人、 軍艦取調役2人、 軍艦役竝勤方二等5人、 医師2人、 軍艦役竝勤方三等3人、 下役2人、 手伝医師2人、 当分出役2人(以上士官)、 水夫小頭・火焚小頭10人、 平水夫・平火焚・銃卒14人、 大工2人、 鍛冶2人。
  16. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.153-155、明治6年10月闕月(軍務局)艦船乗組定員。合計135名、外に鍛冶長(下士12等)2人有り
  17. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.159-161、明治16年8月18日(丙71)迅鯨艦外四艘ノ乗員
  18. ^ #日本の戦艦(上)2001p.17
  19. ^ 元綱数道 幕末の蒸気船物語 139頁
  20. ^ 1871年12月改装以降の備砲については泉 江三 「軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上巻」18頁参照
  21. ^ 公文類聚・第十編・明治十九年・第三十三巻・運輸三・船舶車輌・津港・河渠・橋道:逓信省海軍艦船及西洋形商船ニ信号符字ヲ点付ス・其二」 アジア歴史資料センター Ref.A15111235500  画像1「二月十八日 逓信省海軍艦船及西洋形商船ニ信号符字ヲ點付ス 逓信省達 第八号本年一月中海軍艦船及ヒ西洋形商船左ノ通信号符字ヲ點付ス十九年二月十八日 海軍艦船ノ部 信号符字 艦名 砲數 GCEC 龍驤Ru-jo 六 GQBF 筑波Tsuku-ba 八 GQBJ 春日Kasuga 五 GQBL 鳳翔 Hosyo 四 GQBN 富士山 Fujiyama 十二 GQBR 孟春Mo-shun 四 信號符字 艦名 砲數 GQBU 東Aduma 三 GQBH 日進Nisshin 七 GQBK 雷電Raiden 四 GQBM 石川Ishi-kawa 二 GQBP 天城Ama-ki 六 GQBS 清輝Sei-ki 六」
  22. ^ 新選組 128頁
  23. ^ a b 『海防戦艦』28ページ
  24. ^ 『海防戦艦』26、28-29ページ
  25. ^ a b c d e 『海防戦艦』29ページ
  26. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像8-9、明治二年己巳 軍務官 兵部省、3月。
  27. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治3年7月28日(太政官)。
  28. ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻p.290
  29. ^ #M1-M9海軍省報告書画像13、明治3年7月。
  30. ^ #海軍制度沿革8(1971)p.33、明治4年3月7日(御沙汰)諸港守備ノ軍艦ヲ解クノ件「兵部省 諸港守衛トシテ出張之軍艦解備被仰付候間帰艦之儀其省ヨリ可相達候事」
  31. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治4年
  32. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像17、明治4年5月。
  33. ^ 明治4年10月28日制定 「海軍規則並俸給表」 第三條、および明治4年11月15日付 「諸艦等級附」。
  34. ^ 『海軍制度沿革』巻8、1940、p.354。国立国会図書館デジタルコレクション コマ197 「◉甲鐡艦ヲ東艦ト改稱ノ件 明治四年十二月七日(兵部省一五七) 甲鐡艦ノ儀自今東艦ト改號候條此旨相達候事」
  35. ^ #M1-M9海軍省報告書画像21-22、明治4年12月。
  36. ^ a b #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治5年
  37. ^ #M1-M9海軍省報告書画像26-27、明治5年4月。
  38. ^ #M1-M9海軍省報告書画像27-29、明治5年5月。
  39. ^ 明治5年10月5日付 乙第238号但し書き。
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  78. ^ 『日本海軍史』第9巻、10頁。
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参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 国立公文書館
    • 『記録材料・海軍省報告書第一』。Ref.A07062089000。  明治元年から明治9年6月。
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    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091300。  明治10年7月から明治11年6月。
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091500。  明治11年7月から明治12年6月。
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091700。  明治12年7月から明治13年6月。
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091900。  明治13年7月から明治14年6月。
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092100。  明治14年7月から明治15年6月。
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092500。  明治16年1月から12月。
    • 『公文類聚・第十編・明治十九年・第三十三巻・運輸三・船舶車輌・津港・河渠・橋道:逓信省海軍艦船及西洋形商船ニ信号符字ヲ点付ス・其二』。Ref.A15111235500。 (国立国会図書館)
      防衛省防衛研究所
    • 『公文類纂 明治4年 巻11 本省公文 黜陟部8/海軍諸達 福島弥太六甲鉄艦長代外数件達』。Ref.C09090287600。 
    • 『公文類纂 明治10年 前編 巻11 本省公文 艦船部1/無号 東艦日進艦 浅間艦神戸回艦の件東海鎮守府へ達』。Ref.C09112318700。 
    • 『明治9年 海軍省布達全書/4月』。Ref.C12070000700。 
    • 『明治11年 海軍省布達全書/2月』。Ref.C12070003800。 
  • 国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館)
  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。 
  • 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 図説・新選組幕末斬闘賦 学研 2010年 ISBN 978-4-05-605775-1
  • 海人社『世界の艦船』2007年12月号 No.683 p156~p161
  • 中名生正己『幕末軍艦史話』最終話 甲 鐵
  • 中村彰彦『軍艦「甲鉄」始末』新人物往来社、2005年。ISBN 4-404-03288-9
  • 西村誠ほか『日本海軍 艦艇発達ガイド』双葉社 2010年 ISBN 978-4575451337
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 元綱数道『幕末の蒸気船物語』成山堂書店、2004年。ISBN 4425302516
  • 橋本若路『海防戦艦 設計・建造・運用 1872~1938』イカロス出版、2022年、ISBN 978-4-8022-1172-7
  • 横須賀海軍工廠 編『横須賀海軍船廠史』 明治百年史叢書 第170巻、原書房、1973年3月(原著1915年)。 
  • 官報

関連項目

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