第二次世界大戦の後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 23:40 UTC 版)
「ホーボーケン (ニュージャージー州)」の記事における「第二次世界大戦の後」の解説
第二次世界大戦はホーボーケンの活力を回復させた。市内にある多くの産業が戦争遂行に必要とされた。男達が戦争に行くと多くの女性が工場で雇われ、トッド造船所を初めとする幾つかの工場では女性を職制に付けるなど動機付けを図った。復員兵の中にはGIの住居手形を使う者もいたが、民族集団や家族の絆のある者は市内に留まることを選んだ。1950年代、市の経済は依然、トッド造船所、マクスウェル・ハウス、リプトン・ティ、ホステス、ベスレヘム・スチールなど大きな工場のある企業に支えられ、そこここで大きな機関設備に対する投資も衰えなかった。労働組合が強く、給与もそこそこ良かった。 しかし、1960年代までに事態は崩れていった。20世紀への変わり目に建てられた住居がみすぼらしくなりしかも混み合っていた。造船業は外国の方が安く造れるようになった。輻輳した市内の通りにある煉瓦造りの建物よりも駐車場に囲まれた1階建ての工場の方が製造業においても物流においても経済的になった。製造業は緑の多い広野に移り、港は大きな設備のあるニューアーク湾に仕事を奪われ、車、トラックおよび飛行機が従来の鉄道や船に置き換わってアメリカの輸送力において支配的になると、ホーボーケンの町は容赦ない衰退の痛みを味わうようになった。ホーボーケン市民の多くは近郷のバーゲン郡やパセーイク郡の郊外に移住し、土地の価格が低下した。ホーボーケンは以前の活気ある港湾市の象徴的な存在から衰退の代表に変わり、しばしばパターソン、エリザベス、カムデンおよび隣のジャージーシティなど同じような現象に苦しむニュージャージー州の都市と同列に加えられた。 古い経済基盤は無くなり、新しいことは何も見えてこなかった。リバー・ストリート沿いのいわゆるスラムを壊すこと、またマリンビュー・プラザや中心街のチャーチ・タワーズに助成金のある中程度の所得者向け住宅を建てたことにより、人口の減少を食い止める試みが行われた。長く集められないままのゴミの山や半分野生化した犬の群れは見慣れない光景ではなくなった。ホーボーケン市は今より良き時代を経験しているが、今でも決して見棄てられていることはない。新しい移民の到来、多くはプエルトリコ人であるが、小規模ながら商店の営業を継続させ、放棄されていた住居が使われるようになった。しかし、多くの仕事があるというわけには行かなかった。「ザ・アベニュー」と呼ばれるワシントン・ストリートは板で玄関が閉じられてしまうこともなく、市民であることをまだ誇りにしている多くの者達の親密な近所付き合いが残った。スティーブンス工科大学は一級の工業系大学のままであり、マクスウェル・ハウスは製造音を出し続けており、ベスレヘム・スティールは丘に上がった水夫を労働者として雇っている。イタリア系アメリカ人などは総菜店(デリカテッセン)に「古い近所付き合い」を求めて戻ってきた。幾つかの通りはまだ「危うい」が多くは夜でも安全である。
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