第二次世界大戦の影響と競馬場の終焉とは? わかりやすく解説

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第二次世界大戦の影響と競馬場の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 18:19 UTC 版)

横浜競馬場」の記事における「第二次世界大戦の影響と競馬場の終焉」の解説

1931年昭和6年)に発生した柳条湖事件端を発する満州事変から、日本中華民国との長い戦い日中戦争)に突き進み国内でも戦時体制化が進んだそんな中1936年昭和11年)に(旧)競馬法改正されると、全国競馬倶楽部解散し、「日本競馬会」に統合された。日本レース・クラブ1937年昭和12年10月吸収され開設以来使用されてきた根岸競馬場の名称も「日本競馬会横浜競馬場」に改められた。 次第戦時色濃くなっていく世相中でも競馬市民レジャーとして広く認知され横浜はじめとする競馬場入場者数売上ともに順調に成長していたが、一方で1940年昭和15年)には横浜競馬場長のステーツ・アイザックス老齢理由更迭されるなど、外国人排斥顕著になっていった1941年昭和16年)に第二次世界大戦日英米戦(太平洋戦争)が開戦すると、横浜競馬場クラブハウス神奈川県警察敵国民間人収容所設け、翌1942年昭和17年)には軍港一望できる立地という理由作戦必要な施設であるとして海軍省接収され横浜競馬開催中止追い込まれた。横浜競馬場1943年昭和18年6月10日閉場し76年にわたる競馬開催歴史終止符打たれた。同年横浜競馬場予定していた競馬春季東京競馬場秋季中山競馬場代替開催した。 閉場後帝国海軍売却されクラブハウス連合国民間人抑留所として戦時交換船が来るまで使用されたほか、スタンドには機密文書などを手掛ける「文壽堂」の印刷工場置かれた。 横浜競馬場土地・施設譲渡際し日本競馬会条件として代替用地斡旋を軍に求めた競馬会で候補地を検討結果小田原急行電鉄相模大野駅南側江ノ島線沿線付近移転候補地定め、1周2400mの馬場70棟の厩舎擁する競馬場建設計画の上、軍に対し土地斡旋資材提供の要請行ったが、既に戦争末期戦局悪化一途たどっており、軍は日本競馬会からの度重なる要請応じことなく終戦迎え新たな競馬場建設は叶わなかった。

※この「第二次世界大戦の影響と競馬場の終焉」の解説は、「横浜競馬場」の解説の一部です。
「第二次世界大戦の影響と競馬場の終焉」を含む「横浜競馬場」の記事については、「横浜競馬場」の概要を参照ください。

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