パリミュチュエル方式の導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 23:12 UTC 版)
「マット・ウィン」の記事における「パリミュチュエル方式の導入」の解説
1908年、ルイビルの市長でありチャーチルダウンズ社長であるグレインジャーに敵対する勢力の働きかけにより、ルイビル市政府はブックメーカーによる賭事の一切を禁止する法律を通した。当時のチャーチルダウンズではブックメーカー方式以外の投票システムはなく、事実上の馬券発売禁止命令であった。 これに対してウィンは法の抜け穴を探し、その結果、条文には様々な賭事および賭博用機器の使用禁止が記されていたものの、1860年代に発明されたパリミュチュエル方式の集計用機械は禁止された機器に含まれていないことを発見した。初期のチャーチルダウンズには創設者であるメリウェザー・ルイス・クラーク・ジュニア(英語版)によってフランスの競馬に倣ってプロトタイプのパリミュチュエル用の機械が導入されていたが、導入から3年後にお蔵入りしていた経緯があった。ウィンはこの機械をチャーチルダウンズにあった分のみならず、それ以外に質屋やコレクター所蔵品なども含めて11台確保して、開催に備えた。市政府はこの動きに対して、チャーチルダウンズでの賭事すべてを禁止する条例を通そうと試みた。しかしこれに対しては裁判所より妨害の阻止が命じられ、結果チャーチルダウンズ側は1908年春の開催を勝ち取ることに成功した。 この当時は賭博に対する風当たりが全米で強くなっていた時期で、特にブックメーカーは不正の温床扱いされた。このためチャーチルダウンズでは1911年には完全にパリミュチュエル方式に移行、ブックメーカーを排除していった。1913年の『デイリー・レーシング・フォーム』の総評記事ではウィンについて「好機を捉え、どんな事態も常に自分の手で制御して、マット・J・ウィンはここ数年で競馬の地位をかつてないほど高めた。ウィンはケンタッキー州競馬委員会の設立法制定にずっと活躍し、古い賭け方を新しいものに替えるよう導いた」と功績を称えている。1945年にウィンが著した自伝によれば、1914年時点でケンタッキー州はもちろんのこと、メリーランド州、オクラホマ州、ミシガン州、およびカナダのいくつかの州でパリミュチュエル方式が採用されていたとあり、以後この方式は全米の主流となっていった。
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