南部の脱退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:00 UTC 版)
サウスカロライナ州が脱退した後の動きについては、サムター要塞の戦いと南北戦争を参照 1850年代半ばまでに共和党が台頭しアメリカとしては初めて絶対多数を占める党になったことで、政治は党派的な緊張関係が尽きてくる段階に入った。党派的な緊張関係の焦点であった西部の土地の多くは綿花の栽培に適していなかったが、南部の脱退指向派は自分達の国政における力が急速に弱っている兆候としてその政治的な決着を読み取った。以前は、奴隷制が民主党によってある程度強化されていた。民主党は南部寄りの姿勢を強く表すようになってきており、国の新領土を南部の者達が支配しようとしたときも容認し、南北戦争前までは国策を支配していた。しかし、民主党は1850年代半ばの選挙区調整で重大な逆境に立った。1860年は有権者集団の中で既存の党に忠実であった者達の模様を大きく変えさせた重大な選挙であった。リンカーンの選出は、国と地方の利益および依存関係において競合する力のバランスを変える分岐点となった。 選挙の行方が確実になってくると、サウスカロライナ州は特別会議を招集して、「サウスカロライナ州とアメリカ合衆国の名の下にある他の州との間に存続した連合は解消された」と宣言し、1861年5月21日までの他の南部10州脱退の先駆けとなった。連邦議会では南部による反対が無くなり、共和党は妥協を生むような方法で南部の要求を満足させる必要がなくなった。
※この「南部の脱退」の解説は、「南北戦争の原因」の解説の一部です。
「南部の脱退」を含む「南北戦争の原因」の記事については、「南北戦争の原因」の概要を参照ください。
- 南部の脱退のページへのリンク