南部アフリカの軍事史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:29 UTC 版)
「アフリカの軍事史」の記事における「南部アフリカの軍事史」の解説
他のアフリカの主要地域と同様に南部アフリカも複雑な地域である。一部の国は内陸部に存在しているが、西は大西洋、東はインド洋と両方の大洋によって囲まれているという点で最も有名である。 南半球では、南部アフリカと南アメリカの南部及びオーストラリアのみが戦略的に重要な位置にあったため、その点において南アフリカ共和国の喜望峰の位置と南部アフリカは総じて期待されていたはずだった。 加えてヨーロッパ、アメリカ合衆国の東海岸及び南アメリカ(ブラジル、アルゼンチン)、からのアジアへは南アフリカの喜望峰周辺のルートが最短であった。 スエズ運河は1869年に完成したため歴史の大半には存在していない。全ての船舶がヨーロッパからアジア、アラビア及びアフリカの大半の地域からの行き交いをできるようにするためには南アフリカの喜望峰周辺の海を渡る長いルートでの航海を余儀なくされていた スエズ運河の完成と現代化の後でさえ、多くの軍艦、タンカー及び貨物船を含む大規模な船舶を収容することはできなかった。従って、世界の他の世界的なチョークポイントの一部が閉鎖されるか戦争状態に陥った時に喜望峰のルートは重要かつ非常に理想的なルートであり続けている。 裕福な国家は大抵優れた海軍力があり、戦略地政学の戦力となる国家の貿易及び自国軍戦力の保護に使用している。本来、強大な海軍を持ち公海上でも優勢な勢力は世界最大の勢力になり、長年に渡って国家が知っていたことであり、それ故に公海上での彼らの商業及び海軍の対立になる。 国際連合の地理的地域の構成では、5ヶ国(南アフリカ、ボツワナ、レソト、ナミビア、スワジランド)が南部アフリカを構成している。5ヶ国で最大の勢力が南アフリカで他の4ヶ国は小国である。この地域はしばしばアンゴラ(しばしば中部アフリカにも含まれる)、モザンビーク及びマダガスカル (東アフリカにも含まれる)、マラウイ、ザンビア — インド洋の小島であるコモロ、モーリシャス、セーシェル、マヨットとレユニオンを含むとみなされることもある コンゴ民主共和国とタンザニアはそれぞれ中部と東部に位置すると一般的に認識されているが。時々南アフリカに含められることがある。これらの国家間のこの共通性は軍事史に多大な影響を与えた 南アフリカでの最も有名な戦争と紛争は南アフリカのアフリカ人を支配・制御しようとするヨーロッパの植民地勢力との間の戦いやイギリスと白人のボーア(アフリカーナーとしても知られる。大半がオランダ東インド会社により導入された初期の植民者の子孫)間の戦争である。 コイコイ・オランダ戦争 (1659–1677)で、オランダは現在の南アフリカのケープタウンの地域で戦った。後にイギリス・オランダ戦争が勃発し、ミューゼンバーグの戦い(1795)とBlaauwbergの戦い(1806)で南アフリカにおけるイギリスの勢力を恒久的に確立した。 グレート・トレック中に南の海岸から内陸に移動したオランダの農家またはtrekboersはコサ人と一連のコサ戦争(1779–1879)で対峙し、最後にはコサ人が敗北した Ndwandwe・ズールー戦争(1817–1819)中にアフリカの内部紛争もあり、ズールーが勝利したMfecane (1815–1835) ボーアとズールーはItaleniの戦い (1838)とブラッド・リバーの戦い(1838)で互いに争っておりズールーの敗北に終わったが、ズールー国家はズールー戦争 (1879)の終結まで生き残った。 イギリスは第一次ボーア戦争中にボーア諸共和国でのボーア人に敗北したが第二次ボーア戦争(1899–1902)では勝利した。イギリスの多大な影響下で、自治領の南アフリカ連邦は強力な白人統治国家へと成長していった。第一次世界大戦中に連邦は同盟国のために戦う南アフリカ海外遠征軍を結成した。南アフリカの数千人の兵士がデルビルの森(ソンムの戦い(1916))とパッシェンデールの戦い(1917)で戦死した。元ボーア人のリーダーのヤン・スマッツはドイツ領東アフリカ(タンザニア)とドイツ領南西アフリカ(今日のナミビア)での成功した戦線を率いたことで有名になった。 南アフリカは、第二次世界大戦中の連合軍の戦争にも大きく貢献し北アフリカ戦線とイタリア戦線に武器や軍隊を投入した。多くの南アフリカのボランティアにイギリス空軍でエースになった。 南アフリカ陸軍と空軍は1935年にエチオピアを侵略したイタリア軍を撃退するのに役立つことになった もう一つの南アフリカが参加した重要な勝利として、フランスのヴィシー政権の支配からマガラシ(現在はマダガスカルとして知られる)を解放する運動である。南アフリカの兵士が支援した英軍は、南アフリカからの攻撃を上げ、1942年に戦略上重要な島を占領し、日本による奪取を阻んだ 南アフリカ第1歩兵師団は1941年と1942年に北アフリカでエル・アラメインの戦いを含む一部の戦闘に参加した後南アフリカに撤退した 南アフリカ第2歩兵旅団は1942年の間北アフリカで数々の戦闘に参加していたが、1942年の6月21日のトブルク陥落時に師団の2つの歩兵旅団全部と支援部隊の大半が捕虜になった 南アフリカ第3歩兵師団はいかなる戦闘においても積極的な参加をすることはなかったが、その代わり守備任務を行い、南アフリカ第1、第2歩兵師団の補充兵を供給する南アフリカ故郷防衛軍を組織・訓練していたが、師団を構成する旅団の一つ「7 SA Motorised Brigade」はマラガシ侵攻に参加した 南アフリカ第6装甲師団は多くの南ローデシアの志願者を組み入れており、1944年から1945年にわたってイタリアで数々の戦闘を戦った 南アフリカは対日本の戦争においても貢献しており、日本との海戦において人員と労提船を供給した 第二次世界大戦中に全体で33万4000人(白人:21万1000人、黒人:7万7千人、カラード、アジア人:4万6000人)が南アフリカ軍のフルタイムサービスへ志願しており、約9000人が戦闘で死亡した 南アフリカのアフリカーナー主体の政府が関与している現代の紛争は論争になった同国のアパルトヘイト政策の結果としての怒りであり、アフリカ民族会議の軍事部門「Umkhonto we Sizwe」とソビエト連邦や中華人民共和国などの共産主義者の国家から訓練と装備を得ていたアザニア人民解放軍が主導していた。関連する南アフリカ国境戦争は南西アフリカ人民機構(SWAPO)が南アフリカの統治からナミビアを解放しようと闘争を始めたことから勃発した。南アフリカは1966年から1989年にSWAPOと同盟国のアンゴラに対する長くて辛い戦線を戦った。紛争は1984年に大規模な戦争にエスカレートし、1987年と1988年の間に、南アフリカ、キューバ及びアンゴラ軍は第二次世界大戦以降アフリカで最大の単独の戦闘クイト・クアナヴァレの戦いを戦った アフリカで起きた大規模なポルトガル植民地戦争でアンゴラは独立を勝ち取った(アンゴラ独立戦争(1961–1974))が、その後内戦(1974–2002)に陥った。モザンビークでも同様に独立戦争(1964–1974)後、内戦(1975–1992)が起きた。ローデシア紛争(1966-1979)ではローデシア(ジンバブエ)の保守的な少数派の白人政府が民族主義のゲリラによって打倒された。 南アフリカ防衛軍は核兵器を製造し、沿岸で一度核実験を行ったと言われており、ヴェラ事件として知られるようになった。2014年時点で他のアフリカ諸国はいかなる種類の核兵器も保有していない。
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