第一次ボーア戦争とは? わかりやすく解説

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第一次ボーア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 19:44 UTC 版)

南アフリカ共和国の歴史」の記事における「第一次ボーア戦争」の解説

グレート・トレック後、この地域には4つ白人政府トランスヴァール共和国オレンジ自由国ケープ植民地ナタール植民地)と、いくつかの黒人王国並立するようになったケープ植民地においては1853年議会設立され英国領内自治植民地への道筋ができた。イギリスケープインドではなくカナダオーストラリア同じように扱うことを決定し財産による制限選挙制が施行された。これは非人種的なもので、全人同一額の一定額の納税があればカラード黒人選挙権を持つことができた。といっても、両人種の有権者総有権者15%を越えることはケープ植民地歴史通じ一度もなく、両人種代表の議員現れなかった。イギリス系移民続いたものの、この地ではボーア人多数派地位占め続けたナタール植民地は、他の3植民地とは異なった歴史たどったナタール共和国の滅亡時にボーア人のほとんどがこの地を脱出して内陸部へと向かいその後植民地政府イギリス人移民奨励したため、この地では白人大半イギリス系占めたのであるまた、海岸部でのプランテーション労働力として英領インドより多数インド人移入された。 オレンジ自由国においては政府中央集権的かつ安定していた。一院制議会白人限定ではあったがボーア人限定ではなく政府内に目立った対立無かった第3代の大統領にはヨハネス・マルティヌス・プレトリウス(アンドリースの息子)が就任。彼は初代トランスヴァール共和国大統領であり、両国大統領兼任して統一目指したが、トランスヴァール反発によりトランスヴァール大統領職辞任することとなり、両国統一は遠のいた。第4代J・Hブラント大統領時代に、オレンジ自由国最盛期迎える。国内制度整備され1869年には東のソト人との戦闘勝利してカレドン川以西肥沃な土地をもぎ取った1871年各国係争地であったキンバリーにおいてダイヤモンド鉱脈発見された際、オレンジ自由国キンバリー領有権主張したものの、イギリス支援受けた西グリカランドに譲歩余儀なくされた。 トランスヴァール共和国では、政権安定したためしがなかった。各地有力者対立繰り返し政府機構は未熟行政能力低く何度派閥間の内戦起きた1870年代に入ると財政逼迫し、それに乗じたイギリスによって1877年トランスヴァール占領され同国歴史はいったん終焉迎える。しかし、1879年のイサンドルワナの戦いにおいてイギリス軍ズールー軍に完敗するポール・クリューガー率い抵抗運動活発化し、1881年のマシャバの戦いにおいてジュベール将軍率いトランスヴァール軍はイギリス撃破同年トランスヴァール再独立果たした。(第一次ボーア戦争) ズールー王国はブラッド・リヴァーの敗北後、ディンガネが退位させられムパンデが王位継いだ。ムパンデ一代英国との友好により平和がつづいたが、その子セテワヨ・カムパンデの代になると英国との対立深まったトランスヴァール英国支配下に入るとズールー王国への圧力はさらに強くなり、1879年1月11日にはイギリス軍ズールー侵入ズールー戦争の幕が切って落とされた。1月12日にはイサンドルワナの戦いでズールー軍はイギリス軍撃破したものの、結局7月4日ズールー首都ウルンディ陥落ズールー王国分割され1887年には完全にナタール併合された。

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第一次ボーア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:16 UTC 版)

ボーア戦争」の記事における「第一次ボーア戦争」の解説

en:First Boer War」も参照 第一次ボーア戦争とは、トランスヴァール共和国イギリス併合しようとした戦争1880年12月16日 - 1881年3月23日)のこと。そのためトランスヴァール戦争 (Transvaal War) とも呼ばれる19世紀17世紀ごろからケープ植民地入植していたオランダ系移民の子孫であるボーア人たちは、アフリカ南部支配権巡ってイギリス激しく対立していた。 イギリスケープ占領オランダの植民地譲渡により、ボーア人新天地求めてアフリカ大陸内部更なる植民開始しズールー族駆逐し1839年ナタール共和国建設する。しかし、これは1843年イギリス軍侵攻により潰えるボーア人は更に内陸部移動し1852年トランスヴァール共和国を、1854年オレンジ自由国設立イギリス両国承認した1860年代以降トランスヴァール東部金鉱が、オレンジ自由国ではダイヤモンド鉱山発見されると、白人鉱山技師大量に流入しはじめたイギリスはこの技師たちの保護大義名分としてオレンジ自由国領有化する(この技師たちの中には、後にデ・ビアス社を創設するセシル・ローズ含まれていた)。 内陸にあったトランスヴァール共和国は、海を求めてズールー王国方面進出しようとした。しかし、この動き警戒したイギリストランスヴァール共和国併合宣言しボーア人はこれに抵抗して1880年12月16日ポール・クルーガー司令官として大英帝国宣戦布告両国戦争状態へ突入する。 この戦いにおいてボーア人たちはカーキ色農作業服姿であったに対して英国軍軍服鮮紅色であったため、ボーア人狙撃手格好標的となったという。 1880年12月16日ポチェフストルームの古い砦にボーア人立てこもり戦闘開始続いて12月20日にはブロンコーストプルートの戦い英語版)で、プレトリア向かっていたアンストラザー中佐率いる第94歩兵連隊英語版)約250名がボーア人降伏1881年1月28日にはレイングス・ネック(英語版)にて、大規模な戦闘発生した。(レイングス・ネックの戦い英語版))この戦いで砲兵一斉砲撃ボーア人動き封じた後に、騎兵突撃させる戦法英国軍取った。しかし、地の利を持つボーア人砲撃による被害をほとんど受けず突撃してきた騎兵隊銃撃加えたまた、共に前進していた歩兵にも攻撃し大損害を与えた。特に、第58歩兵連隊英語版)は35-40%もの死傷者出した。この戦いでは、コリー少将参謀士官のジェームス・ラスコム・プール少佐や、ロバート・エルウェス(英語版中尉、エドワード・インマン中尉や、ドルフィン中尉なども戦死するといった被害被った。更に2月8日、シャインスホーフタの戦い英語版)でも敗北。そして最終的に2月27日、マジュバ・ヒルの戦い英語版)で英国軍ボーア人惨敗。この戦いで英国軍指揮官である、コリー少将戦死するほか多大な犠牲者出した。これにより1881年3月23日プレトリア協定英語版)が結ばれイギリストランスヴァール共和国独立再度承認することとなり、戦争終結したものの大英帝国面目丸つぶれとなった

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