第一次ボーア戦争
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「南アフリカ共和国の歴史」の記事における「第一次ボーア戦争」の解説
グレート・トレック後、この地域には4つの白人系政府(トランスヴァール共和国、オレンジ自由国、ケープ植民地、ナタール植民地)と、いくつかの黒人王国が並立するようになった。 ケープ植民地においては、1853年に議会が設立され、英国領内の自治植民地への道筋ができた。イギリスはケープをインドではなくカナダやオーストラリアと同じように扱うことを決定し、財産による制限選挙制が施行された。これは非人種的なもので、全人種同一額の一定額の納税があればカラードも黒人も選挙権を持つことができた。といっても、両人種の有権者は総有権者の15%を越えることはケープ植民地の歴史を通じ一度もなく、両人種代表の議員も現れなかった。イギリス系の移民は続いたものの、この地ではボーア人は多数派の地位を占め続けた。 ナタール植民地は、他の3植民地とは異なった歴史をたどった。ナタール共和国の滅亡時にボーア人のほとんどがこの地を脱出して内陸部へと向かい、その後植民地政府がイギリス人の移民を奨励したため、この地では白人の大半をイギリス系が占めたのである。また、海岸部でのプランテーションの労働力として英領インドより多数のインド人が移入された。 オレンジ自由国においては、政府は中央集権的かつ安定していた。一院制の議会は白人限定ではあったがボーア人限定ではなく、政府内に目立った対立も無かった。第3代の大統領にはヨハネス・マルティヌス・プレトリウス(アンドリースの息子)が就任。彼は初代トランスヴァール共和国の大統領であり、両国の大統領を兼任して統一を目指したが、トランスヴァールの反発によりトランスヴァールの大統領職は辞任することとなり、両国の統一は遠のいた。第4代のJ・H・ブラント大統領の時代に、オレンジ自由国は最盛期を迎える。国内の制度は整備され、1869年には東のソト人との戦闘に勝利してカレドン川以西の肥沃な土地をもぎ取った。1871年に各国の係争地であったキンバリーにおいてダイヤモンド鉱脈が発見された際、オレンジ自由国はキンバリーの領有権を主張したものの、イギリスの支援を受けた西グリカランドに譲歩を余儀なくされた。 トランスヴァール共和国では、政権は安定したためしがなかった。各地の有力者が対立を繰り返し、政府機構は未熟で行政能力は低く、何度か派閥間の内戦が起きた。1870年代に入ると財政は逼迫し、それに乗じたイギリスによって1877年にトランスヴァールは占領され、同国の歴史はいったん終焉を迎える。しかし、1879年のイサンドルワナの戦いにおいてイギリス軍がズールー軍に完敗するとポール・クリューガー率いる抵抗運動が活発化し、1881年のマシャバの戦いにおいてジュベール将軍率いるトランスヴァール軍はイギリスを撃破。同年、トランスヴァールは再独立を果たした。(第一次ボーア戦争) ズールー王国はブラッド・リヴァーの敗北後、ディンガネが退位させられムパンデが王位を継いだ。ムパンデ一代は英国との友好により平和がつづいたが、その子のセテワヨ・カムパンデの代になると英国との対立が深まった。トランスヴァールが英国支配下に入るとズールー王国への圧力はさらに強くなり、1879年1月11日にはイギリス軍がズールーへ侵入。ズールー戦争の幕が切って落とされた。1月12日にはイサンドルワナの戦いでズールー軍はイギリス軍を撃破したものの、結局7月4日にズールー首都ウルンディは陥落。ズールー王国は分割され、1887年には完全にナタールに併合された。
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第一次ボーア戦争
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「en:First Boer War」も参照 第一次ボーア戦争とは、トランスヴァール共和国をイギリスが併合しようとした戦争(1880年12月16日 - 1881年3月23日)のこと。そのためトランスヴァール戦争 (Transvaal War) とも呼ばれる。 19世紀、17世紀ごろからケープ植民地に入植していたオランダ系移民の子孫であるボーア人たちは、アフリカ南部の支配権を巡ってイギリスと激しく対立していた。 イギリスのケープ占領とオランダの植民地譲渡により、ボーア人は新天地を求めてアフリカ大陸内部へ更なる植民を開始し、ズールー族を駆逐して1839年にナタール共和国を建設する。しかし、これは1843年のイギリス軍の侵攻により潰える。ボーア人は更に内陸部へ移動し、1852年にトランスヴァール共和国を、1854年にオレンジ自由国を設立。イギリスも両国を承認した。 1860年代以降、トランスヴァール東部で金鉱が、オレンジ自由国ではダイヤモンド鉱山が発見されると、白人の鉱山技師が大量に流入しはじめた。イギリスはこの技師たちの保護を大義名分としてオレンジ自由国を領有化する(この技師たちの中には、後にデ・ビアス社を創設するセシル・ローズも含まれていた)。 内陸にあったトランスヴァール共和国は、海を求めてズールー王国方面へ進出しようとした。しかし、この動きを警戒したイギリスはトランスヴァール共和国の併合を宣言し、ボーア人はこれに抵抗して1880年12月16日、ポール・クルーガーを司令官として大英帝国に宣戦を布告。両国は戦争状態へ突入する。 この戦いにおいてボーア人たちはカーキ色の農作業服姿であったのに対して、英国軍の軍服は鮮紅色であったため、ボーア人狙撃手の格好の標的となったという。 1880年12月16日、ポチェフストルームの古い砦にボーア人が立てこもり、戦闘が開始。続いて12月20日にはブロンコーストプルートの戦い(英語版)で、プレトリアへ向かっていたアンストラザー中佐率いる第94歩兵連隊(英語版)約250名がボーア人に降伏。1881年1月28日にはレイングス・ネック(英語版)にて、大規模な戦闘が発生した。(レイングス・ネックの戦い(英語版))この戦いでは砲兵が一斉砲撃でボーア人の動きを封じた後に、騎兵を突撃させる戦法を英国軍は取った。しかし、地の利を持つボーア人は砲撃による被害をほとんど受けず、突撃してきた騎兵隊に銃撃を加えた。また、共に前進していた歩兵にも攻撃し、大損害を与えた。特に、第58歩兵連隊(英語版)は35-40%もの死傷者を出した。この戦いでは、コリー少将の参謀士官のジェームス・ラスコム・プール少佐や、ロバート・エルウェス(英語版)中尉、エドワード・インマン中尉や、ドルフィン中尉なども戦死するといった被害も被った。更に2月8日、シャインスホーフタの戦い(英語版)でも敗北。そして最終的に2月27日、マジュバ・ヒルの戦い(英語版)で英国軍はボーア人に惨敗。この戦いで英国軍の指揮官である、コリー少将が戦死するほか多大な犠牲者を出した。これにより1881年3月23日、プレトリア協定(英語版)が結ばれ、イギリスはトランスヴァール共和国の独立を再度承認することとなり、戦争は終結したものの大英帝国の面目は丸つぶれとなった。
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