第一次プラハ窓外放出事件
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「プラハ窓外放出事件」の記事における「第一次プラハ窓外放出事件」の解説
1415年、コンスタンツ公会議において、宗教改革の先駆者として知られるプラハ大学教授ヤン・フスが、異端と宣告されて火刑に処された。ボヘミア人たちはこれに猛烈に抗議したが、それ以上のことはなかった。むしろ問題となったのは、ヤコウベク・ゼ・ストシーブラが始めたウトラクィスム(両形色拝領)である。この要求に対して、ローマ・カトリック教会はインターディクトゥム(聖務停止)で応じた。 ボヘミア王ヴァーツラフ4世は1419年、弟の神聖ローマ皇帝ジギスムントの仲介でローマ教会との和解策を探る。その結果、プラハのほとんど全ての教会をローマ教会へと復帰させることとなった。だが当時、フス派の中心となっていた新市街参事会を解散し、ローマ教会信徒だけの新たな参事会を組織した際、これに憤ったフス派勢力は7月30日、プラハ市庁舎(チェコ語版)を襲撃。市参事会員7名は窓から投げ落とされ、武装した市民によって一人残らず惨殺されてしまう。これが第一次プラハ窓外放出事件である。 事件の知らせを聞いたヴァーツラフ4世はそのショックで卒中を起こし、その半月後に死去した。 この事件を契機として、ドイツ人の追放やカトリック教会への襲撃が広がり、フス戦争が勃発した。このチェコにおける民族運動は1436年まで続いた。
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