第一次ブルランの戦いおよび半島方面作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 06:33 UTC 版)
「ジェイムズ・ロングストリート」の記事における「第一次ブルランの戦いおよび半島方面作戦」の解説
ロングストリートは南軍の中佐としてバージニア州リッチモンドに着任した。1861年6月22日、アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスと高官邸宅で会見し、6月17日付けで准将に指名されたことを知らされ、25日に任命書を受け取った。ロングストリートはマナサスにいるP・G・T・ボーリガード准将の所に出頭するよう命じられ、そこに到着するとバージニア3個連隊からなる旅団の指揮を任された。 ロングストリートは部下を集め、ひっきりなしにその旅団の訓練を行った。この旅団は7月18日のブラックバーンズ・フォードの戦いで北軍の威力偵察部隊と初めて戦い、これが第一次ブルランの戦いに繋がった。7月21日、主力の攻撃が戦列の反対側まで達したとき、ロングストリートの旅団は9時間も大砲の砲火に耐えていたにも拘わらず比較的小さな役割を演じただけだった。ロングストリートは自軍の指揮官達が敗走する北軍を活発に追撃させなかったことに不満だった。ロングストリートの信頼する副官モクスリー・ソレルは、ロングストリートが「かなり怒っていた。その帽子を怒りに任せて地面に叩き付け、踏みにじり、汚い言葉を吐いた」と記録した。ソレルはロングストリートが「引っ込め!畜生、北軍が粉々に砕け散った」と言ったとしている。ロングストリートは10月7日に少将に昇進し、南軍のポトマック軍の1師団(ハンプトンズ・リージョンの4個歩兵旅団)で指揮を執った。 1862年の1月にロングストリート家を悲劇が襲った。リッチモンドで流行った猩紅熱によって1歳の娘メアリー・アン、4歳の息子ジェイムズ、6歳の息子オーガスタスを1週間の内に次々と失った。13歳の息子ガーランドも死ぬ寸前までいった。ロングストリートはこの喪失で大いに落胆し、個人的にも社会的にも引っ込み思案になった。1861年のロングストリートの本部はパーティ、飲酒およびポーカーで明け暮れていた。葬儀から戻ったロングストリートは社交生活が陰鬱になり、ほとんど酒を飲まず、敬虔な聖公会員になった。 その年の春、半島方面作戦では複雑な任務をこなした。ヨークタウンの包囲戦とウィリアムズバーグの戦いでは後衛を指揮し、ジョージ・マクレラン少将の指揮する北軍がリッチモンドに進軍する速度を遅らせた。セブンパインズの戦いでは、ロングストリート軍が間違った道を間違った方向に進んで友軍部隊の混乱の原因を作り、マクレラン軍に対する逆襲の効果を薄めさせた。ロングストリートの報告書はこの災難の原因について僚友のベンジャミン・フーガーを不当に責めていた。ジョセフ・ジョンストン将軍がこの戦闘中に負傷し、北バージニア軍の指揮官はロバート・E・リー将軍に替わった。 6月下旬に起こった七日間の戦いの間、ロングストリートはリー軍のおよそ半分に近い15旅団を指揮し、マクレラン軍を半島の先端近くまで押し返した。その指揮は攻撃的であり、特にゲインズミルの戦いとグレンデイルの戦いではその新しく大きくなった部隊の指揮が際だった。ロングストリートにとっては同輩のリー軍将軍達の手柄は大したことがなかった。特にストーンウォール・ジャクソン少将はいつになく元気がなかったので、北軍を打ち破るまでには至らなかった。モクスリー・ソレルは、ロングストリートの戦場で見せる自信と沈着さについて、「彼は安定した岩のようであり、戦場で時には世界が粉々になって飛んでいくように見えた」と書いた。リー将軍は、「ロングストリートは私の右腕だ」と言った。ロングストリートはリーの第一の副指揮官としての地位を築いた。
※この「第一次ブルランの戦いおよび半島方面作戦」の解説は、「ジェイムズ・ロングストリート」の解説の一部です。
「第一次ブルランの戦いおよび半島方面作戦」を含む「ジェイムズ・ロングストリート」の記事については、「ジェイムズ・ロングストリート」の概要を参照ください。
- 第一次ブルランの戦いおよび半島方面作戦のページへのリンク