第一次ブルガリア帝国滅亡後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:29 UTC 版)
「第二次ブルガリア帝国」の記事における「第一次ブルガリア帝国滅亡後」の解説
1018年の第一次ブルガリア帝国の滅亡後、ブルガリアは東ローマ帝国領となった。東ローマの支配下に置かれたブルガリアではテマ制(軍管区制)が実施され、東ローマに従属するブルガリアの貴族と高位聖職者は特権を保証された。しかし、第一次ブルガリア帝国を滅ぼした東ローマ皇帝バシレイオス2世が没し、彼の後継者たちの時代になるとブルガリアには圧政が敷かれるようになる。ブルガリア内の正教徒を管轄するオフリド総主教座は大主教座に降格されてその地位にはギリシャ人が就くようになり、ブルガリア人の中から総主教を選ぶことができなくなった(ブルガリア正教会#オフリド大主教区も参照)。 1040年にミカエル4世の治下で実施された財政改革によってブルガリアの農民に金銭での納税が課され、ブルガリアの農民の生活はより圧迫された。同じ時期にブルガリアではテマ制に代わって疑似封建的な土地制度であるプロノイア制が導入され、農民は領主の搾取にも苦しめられる。1040年にマケドニア地方でブルガリア皇帝サムイルの孫ペタル・デリャン(英語版)が指導する民衆蜂起が勃発し(ペタル・デリャンの蜂起)、指導者のデリャンはブルガリア帝国の再建を掲げた。デリャンの反乱は傭兵の助けを借りた東ローマ軍によって鎮圧されたがその後もブルガリアでは反東ローマの蜂起が頻発し、その背景には社会不安が存在していた。
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