第一次ブルガリア帝国とビザンティン建築
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「東欧諸国のビザンティン建築」の記事における「第一次ブルガリア帝国とビザンティン建築」の解説
ブルガリアの初期の建築について知られていることはないが、この地に定住したスラヴ人にもブルガール人にも、建築的な伝統はなかったと見なされている。ブルガリア帝国の首都となったプリスカとプレスラフからは、バシリカや広間などが発掘されているが、これは彼らが残したものではなく、それ以前に住んでいたローマ人かビザンツ人による建築物であると考えるのが妥当である。 ブルガリア帝国の建築活動が活発になるのは9世紀以降で、首都プレスラフでは、シメオン1世によってビザンティン建築の伝統からはおおよそ異なった形式にみえる円形教会堂が建設された。現在も下部構造が残るが、恐らくこれはバシレイオス1世がコンスタンティノポリスに建立した、アルメニア建築から着想を得た預言者エリヤの教会堂の複製と推察される 。また、それ以外のブルガリア帝国によって建設された教会堂は、典型的な内接十字型の平面を持ち、ビザンティン建築の影響が非常に強く、ブルガリアの独自性はほとんど認められない。シメオンの死後、ブルガリア帝国は滅亡し、バシレイオス2世によってプレスラフは破壊された。皇帝サムイルによって、首都をオフリドに遷した帝国が一時的に復興され、聖ソフィア修道院(スヴェティ・ソフィア修道院)の設立など、積極的な建設活動を行われたことが発掘によって示されているが、この帝国も長くは存続しなかった。 ブルガリアが東ローマ帝国領となると、地方貴族らによって多くの教会堂が建設された。多くは木造天井のバシリカ教会堂だったが、ドーム・バシリカの教会堂も建設されている。この時代の建築物としては、11世紀後半に東ローマ帝国の将軍グリゴリオス・パクリアノスによって創建されたバチュコヴォ修道院がある。当時の規律書(ティピコン)も伝えられているこの修道院の建物の多くはポスト・ビザンティン建築(東ローマ帝国滅亡後の建築)のものであるが、11世紀に建設された墓所聖堂、および12世紀に創建されたアルヒアンゲロス聖堂が残っている。12世紀に、コンスタンティノポリスの画家ヨアンニス・イヴィロプロスによって作成された美しいフレスコ画が残る墓所聖堂は、単廊式二層構造の教会堂であるが、墓所となる聖堂に2層形式を採用することは、以後のブルガリア・ビザンティン建築の一般的な形態となっている。 フレスコ画の美しさから世界遺産にも登録されているボヤナの聖ニコラと聖パンテレイモン聖堂は、11世紀ないしは12世紀に創建されたもので、ビザンティン建築ではリヴァイヴァルとなるクロス・ドーム形式の平面を持つ教会堂が主聖堂となっている。1259年に、この教会堂の西側にカロヤンなる人物によって墓所聖堂が増築されたが、これも上下2層式で、上階は墓、下階は礼拝堂として使用された。
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