第一次ブルガリア帝国の盛衰と東ローマ帝国の統治
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「コソボの歴史」の記事における「第一次ブルガリア帝国の盛衰と東ローマ帝国の統治」の解説
この地域はプレシアン・ハーン(在位836年 - 852年)によって、第一次ブルガリア帝国の一部となった。864年にブルガリア皇帝ボリス1世がキリスト教を受け入れ、ブルガリアのキリスト教化が進められると、その領内には多くの聖堂や修道院が建てられた。ブルガリアの半世紀にわたる東ローマとの闘争の中で1018年に東ローマに征服されるまでの間、150年にわたってコソボはブルガリアの統治下にあった。10世紀の東ローマ皇帝コンスタンティノス7世によるDe Administrando Imperioによると、コソボ北西部はセルビア人が居住しており、コソボはブルガリア人の領土であったとしている。 その後、バシレイオス2世によって再びコソボは東ローマの統治下となった。東ローマ支配下では地方行政制度としてセマ制が導入され、この地域の多くはセマ・セルビアに編入された。 1040年から1041年にかけてのペタル・デリャンの蜂起によって、コソボは短い間解放され、1072年のゲオルギ・ヴォイテフの蜂起では、コンスタンティン・ボディン(ペタル3世)はプリズレンでブルガリア皇帝を宣言し、スコピエまで行軍した。
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