オランダの植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)
「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「オランダの植民地」の解説
詳細は「インドネシア共産党」および「インドネシア国民党」を参照 オランダ領東インドでは、1911年に結成されたサレカット・イスラーム(イスラーム同盟)が第一次大戦期から民族の団結をうったえて植民地支配に抵抗したが、大戦後はオランダの弾圧によって力を弱めた。これに対し、同盟内の左派が中心となって1920年にインドネシア共産党が組織された。これは、合法政党としてはアジア初の共産主義政党だった。共産党はインドネシア各地で反植民地蜂起を指導するなどの活動を展開したが、これも大弾圧をうけ、ほぼ壊滅に近い状態となった。その後、オランダから帰国した留学生が独立運動を主導し、1927年にはスカルノを党首とするインドネシア国民党(PNI)が結成された。スカルノは、マルクス主義における階級闘争という考え方にはなじめず、農民のもつエネルギーを「マルハエニスム(大衆主義)」というかたちで民族解放闘争へとふりむけようとしたといわれる。 1928年にジャカルタで開かれたインドネシア青年会議では、党派をこえた青年が集まり、「青年の誓い」を採択した。そこでは、共通の祖国・民族・言語の名として「インドネシア」をえらぶことを再確認し、紅白二色の国旗が掲揚され、スプラットマン作詞作曲「インドネシア・ラヤ」が場内に流れた。オランダ当局はこれに衝撃をうけ、以後「インドネシア」の語を用いただけで演説を中止させ、集会を解散させたという。 1930年、スカルノは逮捕され、それによってインドネシア国民党は分裂した。
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