オランダの対ポルトガル政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 18:07 UTC 版)
「ポルトガル王政復古戦争」の記事における「オランダの対ポルトガル政策」の解説
かつてオランダ共和国は、互いに共通の敵であるスペインと対抗し牽制するため、ポルトガルとのヨーロッパでの休戦協定に調印したことがあった。オランダはセトゥーバルにある製塩工場の塩の購入を再開し、ポルトガルとのヨーロッパにおける二カ国間通商を復活させた。八十年戦争(1568年 - 1647年)勃発後にスペイン・ハプスブルク家が、1580年のポルトガル併合 (en) を経てポルトガル王位を獲得した時に、オランダとの友好関係には終止符が打たれていた。 1602年、オランダ東インド会社とオランダ西インド会社は、アメリカ大陸、アフリカ、インド、極東にあるポルトガル領植民地への攻撃を開始した。これは蘭葡戦争 (en) と呼ばれ、八十年戦争の一部と見なされており、オランダがハプスブルク領となったポルトガル植民地の香料及び砂糖貿易権を奪おうとしたことが原因である。一時はブラジル、アフリカのポルトガル植民地が、イングランドと同盟したオランダに奪われた。スペインが広大な国土を維持するためヨーロッパで戦争を繰り返す間、手薄になったポルトガル植民地をオランダが狙ったのである。オランダ側は、スペインがヨーロッパでの戦争に翻弄される状況を歓迎し、ジョアン4世が1640年に再独立を宣言してその承認をオランダに迫った際も、承認と停戦はしたものの、条約を結ばなかった。しかし、オランダは小規模な軍事支援を行い、後の名将デ・ロイテルのデビュー戦となるサン・ビセンテ岬の海戦(1640年)でスペイン艦隊に損害を与えている。この時点で、イングランドはオランダとの同盟からポルトガルへ乗り換えることを決めていた。 1661年、ハーグ条約でポルトガルとオランダの和平が成立した(ブラジルからオランダを永久に排除した代わりに、セイロン島とモルッカ諸島をオランダへ割譲した)。
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