オランダの捕鯨基地として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:38 UTC 版)
「ヤンマイエン島」の記事における「オランダの捕鯨基地として」の解説
1615年から1638年まで、ヤンマイエン島はオランダ北方会社の捕鯨基地として用いられた。北方会社は1614年にオランダ議会から北極海捕鯨事業の独占を認められている。1615年には、北方会社の捕鯨船とデルフト商人の捕鯨船の2隻が島に立ち寄っただけであったが、翌年には多くの捕鯨船が島に送られることとなった。北方会社は8隻の捕鯨船を送り、それらにはヤン・ヤコブソーン・シュロボップ(Jan Jacobsz. Schrobop)率いる戦艦3隻が護衛につけられた。デルフト商人たちは、彼らの一人であるアドリエーン・ダークソーン・レヴァースタイン(Adriaen Dircksz. Leversteyn)のもとで5隻を送り込んだ。ジョン・クラークはダンケルクから2隻の船を送り、同様にロンドンとハルからも1隻ずつ船が送られた。 エンホイゼンのホープ(Hope)号の船主ヘールチェ・ヤンス(Heertje Jansz)は、漁期の日々を記録している。船はヤンマイエンまで2週間をかけて航海し、6月上旬に到着する。6月15日には2隻のイングランド船と出会った。6月下旬、最初の船が鯨油を満載して帰国の途に就いた。残る船も8月上旬には鯨油とともに漁場を去った。 この年の漁期、200人が島の北西海岸に散在する6つの拠点に居住し、働いていた。最初の10年間には10隻以上の船がヤンマイエンを訪れている(1624年以降は5~10隻となった)。1624年には島の南海岸ティテルトブクタ (Titeltbukta) に10軒の木造家屋が建てられた。この頃には、オランダ人たちはそれまでの拠点(帆布で作られたテントや簡易な炉)を放棄したようで、木造倉庫と大きな煉瓦造りの炉から成る2つの半永住的な拠点に置き換えた。上述のティテルトブクタと、北海岸のエンヘルスクブクタ (Engelskbukta (Jan Mayen)) である。1628年には、これらの拠点を守るために2つの砦が築かれた。ヤンマイエンで活動した船乗りたちの中には、のちにオランダの高名な海軍提督となるミヒール・デ・ロイテルがいる。1633年、26歳のデ・ロイテルは、デ・フルーネ・レーウ(de Groene Leeuw「緑の獅子」)号の乗組員としてはじめてこの島を訪れ、1635年にも同じ船で再び渡航している。 1632年、オランダ北方会社は、デンマーク人たちが雇用していたバスク人の捕鯨家たちをスピッツベルゲンから追放した。バスク人たちはこれに対する報復としてヤンマイエン島を襲撃し、入植地や工場を焼き討ちした。こうした状況の中、フローテブルック(Grootebroek)のアウトハー・ヤコブス(Outger Jacobsz)船長は、防衛の任務を帯びて6人の航海士とともに1633年から34年にかけての越冬を行った。しかし、彼ら7人は過酷な自然環境の中、壊血病または旋毛虫症(ホッキョクグマの生肉を食べたため)によって全滅した。 捕鯨業は、当初はいくつかの例外を除き、おおむね好成績を挙げていた。たとえば、マテイス・ヤンソーン・フップストック(Mathijs Jansz. Hoepstock)は、1619年に44頭のクジラを捕え(この場所はフップストック湾 "Hoepstockbukta" と呼ばれた)鯨油2300樽を生産した。しかし、その後捕鯨高は減少し、1631年には天候や氷の状況が非常に恵まれていたが、その翌年に捕獲されたのは8頭のみであった。1633年には11隻の捕鯨船が47頭を捕獲したが、1635年には同じ数の船が42頭を捕えるにとどまっている。この島では捕鯨の操業開始以来約1000頭のホッキョククジラが捕殺・処理され、1640年ごろにはこの海域のホッキョククジラはほぼ絶滅したと見られている。こうして、捕鯨基地としてのヤンマイエン島は放棄され、以後2世紀半にわたって無人島となった。
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