オランダの独立と宗教的寛容
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「オランダの独立と宗教的寛容」の解説
「八十年戦争」および「ネーデルラント連邦共和国」も参照 1581年7月26日、低地地方の全国議会においてフェリペ2世の「国王廃位布告」が議決されたものの、新しい君主としてフランス王アンリ3世の弟アンジュー公フランソワの即位が決まっていた。カトリック教徒であるアンジュー公を国王として迎えることについては低地地方側にも懸念がないわけではなかったが、新君主の即位は現君主の廃位を前提とするものであり、外交交渉の場においてオラニエ公ウィレムは抜群の指導力を発揮していた。ところが、新君主アンジュー公は反乱指導部の意に反してあまりにも力量不足で、クーデター未遂事件を起こしてフランスに逃げ帰ってしまった。ホラントとゼーラントの両州は以前からアンジュー公即位に強い警戒心をもっており、こうなった以上はオラニエ公自身をフェリペの後任にすえようと画策したが、1584年6月にアンジュー公が病死したのに続き、7月にはオラニエ公自身がカルヴァン派を装って彼に近づいたカトリック教徒に暗殺されてしまった。翌年には南部の中心都市アントウェルペンが敵軍の手に落ち、北部反乱諸州はなおも外国の君主に主権を委ねようと努めたがアンリ3世に断られ、イングランドのみは女王エリザベス1世が反乱勢力の支援要請に応えてレスター伯ロバート・ダドリーを救援軍の派遣は認めたものの、彼はユトレヒト同盟の内紛に介入して事態をかえって悪化させ、軍事的成果を挙げられないまま1587年11月にはイングランドに帰った。 1588年、北部反乱諸州はようやく独力でこの難局を乗り切るべく、主権を担うことを決意した。オランダ独立への歩みを踏み出したのはまさにこの時であり、執政パルマ公アレッサンドロの軍がブリュッセルを陥落させて南部から進軍するなか、1588年にはフェリペ2世がパルマ公に対し、スペイン無敵艦隊による対イングランド作戦への参加を命じた(アルマダの海戦)。フェリペの主な関心がイギリス・フランスに向いたのは、オランダ人にとって幸いであった。1589年、フェリペ2世はユグノーの指導者アンリ・ド・ナヴァルのフランス王位継承を阻むため、パルマ公にフランスへの進軍を命じたのである(1592年末、パルマ公は戦傷と過労から同地で死去した)。 父ウィレムの遺志を継いだオラニエ公マウリッツは、従兄のウィレム・ローデウェイク・ファン・ナッサウとともに軍制改革をおこない、スペイン軍への反撃を開始した。2人はヨーロッパ軍事革命(英語版)の先駆者といわれ、とくにウィレム・ローデウェイクは火縄銃の連続斉射を考案したことで知られる。一方、ホラント州法律顧問のヨハン・ファン・オルデバルネフェルト(オランダ語版)は外交関係の改善に尽力し、1596年にはイギリス・フランス両国と対等の同盟を結ぶことに成功した。エリザベス1世もアンリ4世も、連邦共和体制のオランダを独立した政治勢力として扱ったのである。軍事的には、1588年から1598年までの10年間でライン川やマース川などの大河川以北に展開していたスペイン軍はすべて一掃されたうえ、ブラバント州の北西部が制圧されたが、オラニエ公ウィレムの居城があったブレダの奪回は数ある戦闘でも象徴的な意味をもっていた。1609年にはスペインとの間に「十二年休戦条約(英語版)」が成立したが、これは事実上一時的ではあれ、スペインがオランダを独立国家として認めたことを意味していた。こうして低地地方の反乱は、北部の連邦共和国の誕生という予想外の結果を生んだ。 従来、低地地方の経済的繁栄はアントウェルペンやヘント、ブリュージュを中心とする南部のフランドル地方に限られており、連邦共和国として独立した北部のオランダは南部の後塵を拝する地域であったが、1590年代以降はアムステルダムを中心とする北部が繁栄するようになり、立場は逆転した。近世の西ヨーロッパでは、政治的な理由から大量の難民が発生し、大規模な人口移動を引き起こした事象として、15世紀末のスペインからのユダヤ人追放、16世紀中葉のスペイン領ネーデルラントからのプロテスタントの流出、16世紀末葉のネーデルラントの南部から北部の大量移住、17世紀後半のフランスからのユグノーの集団亡命の4例が挙げられるが、16世紀末葉のそれはこれらのうち最大のものであった。 1621年、三十年戦争の展開は低地地方をも巻き込んでスペインとの再戦となったが、この時期のオランダ共和国軍の指揮をとったのは、マウリッツとその腹違いの弟フレデリック・ヘンドリックであった。父の政治能力と兄の軍事能力を兼ね備えた人物と評価されたヘンドリックの時代、オランダの国力はおおいに伸長して1602年創設のオランダ東インド会社などを中心として、積極的に海外進出に乗り出した。低地諸州のハプスブルク家への反抗から始まった八十年戦争は、さらに1648年の「ミュンスターの講和」(ヴェストファーレン条約)まで続き、南部国境地帯の争奪戦として展開される。 議会が国政を主導したオランダ共和国は、同時代人の証言によれば、17世紀中葉にあってはカトリック、カルヴァン派、そのほか(他宗派や態度保留者など)がそれぞれ人口の約3分の1ずつを占め、多様な宗教が共存する社会であった。しかし、人口の過半数も達しないカルヴァン派がこの国の唯一の公認宗教であり、その内部には神学者ヤーコブス・アルミニウスの主張を支持するアルミニウス派(寛容派、レモンストラント派)とフランシスクス・ホマルス(オランダ語版)を支持するホマルス派(厳格派、コントラレモンストラント派)の論争などカルヴァン派の教義をめぐり、激しい対立があった。ただし、オランダの場合には、一方で厳格派と穏健派のあいだに「だれとでもうまくやろうとする人々」と称される中間派の層が厚かったことも事実である。12年にわたるスペインとの休戦期間にはカルヴィニズムの内部闘争が生じ、厳格派のオラニエ公マウリッツが教義上の問題でアルムニウス主義を奉じる法律顧問ファン・オルデバルネフェルトを死刑に処し、「国際法の父」として知られるフーゴー・グローティウスを禁固刑に処するという事態も生じている。この対立は、教義をめぐる対立であったと同時にオランダが反乱州から独立国家へ歩んでいく過程で終始主導権を掌握していたマウリッツや海乞食団ら改革派亡命者(ホマルス自身もその一人であった)と、土着の上層市民との主導権争いという性格も帯びていた。 しかし、全体からみればオランダは当時のヨーロッパで最も世俗化が進み、宗教的多様性が認められた地域であった。迫害されたユダヤ教徒やプロテスタントの少数派を受け入れ、カトリックに対しても寛容な姿勢を示した。限定的であり、現代における「信教の自由」には遠くおよばないまでも、オランダが周辺国家に先駆けて宗教的寛容を実現したのは事実である。三十年戦争中、理神論者のルネ・デカルトに安住の地を与え、イングランド王政復古の時代にはジョン・ロックを亡命者として受け入れたのも、新思想に寛大なオランダならではのことであった。亡命中のロックと意気投合したオランダのフィリップ・ファン・リンボルヒュ(オランダ語版)も、終生にわたって宗教的寛容を説いた。フランス人プロテスタントで寛容を説いたピエール・ベールも、晩年はロッテルダムで活動したのである。
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