オランダの独立と宗教的寛容とは? わかりやすく解説

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オランダの独立と宗教的寛容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「オランダの独立と宗教的寛容」の解説

八十年戦争」および「ネーデルラント連邦共和国」も参照 1581年7月26日低地地方全国議会においてフェリペ2世の「国王廃位布告」が議決されたものの、新し君主としてフランス王アンリ3世の弟アンジュー公フランソワ即位決まっていた。カトリック教徒であるアンジュー公国王として迎えることについては低地地方側にも懸念がないわけではなかったが、新君主即位は現君主廃位前提とするものであり、外交交渉の場においてオラニエ公ウィレム抜群指導力発揮していた。ところが、新君主アンジュー公反乱指導部意に反してあまりにも力量不足で、クーデター未遂事件起こしてフランス逃げ帰ってしまった。ホラントゼーラントの両州は以前からアンジュー公即位に強い警戒心をもっており、こうなった以上はオラニエ公自身フェリペ後任にすえようと画策したが、1584年6月アンジュー公病死したのに続き7月にはオラニエ公自身カルヴァン派装って彼に近づいたカトリック教徒暗殺されてしまった。翌年には南部中心都市アントウェルペン敵軍の手落ち北部反乱諸州はなおも外国君主主権委ねよう努めたアンリ3世断られイングランドのみは女王エリザベス1世反乱勢力支援要請応えてレスター伯ロバート・ダドリー救援軍派遣認めたものの、彼はユトレヒト同盟内紛介入して事態をかえって悪化させ、軍事的成果挙げられないまま1587年11月にはイングランド帰った1588年北部反乱諸州はようやく独力でこの難局乗り切るべく、主権を担うことを決意したオランダ独立へ歩み踏み出したのはまさにこの時であり、執政パルマ公アレッサンドロの軍がブリュッセル陥落させて南部から進軍するなか、1588年にはフェリペ2世パルマ公対しスペイン無敵艦隊による対イングランド作戦への参加命じたアルマダの海戦)。フェリペ主な関心イギリス・フランス向いたのは、オランダ人にとって幸いであった1589年フェリペ2世ユグノー指導者アンリ・ド・ナヴァルフランス王継承阻むため、パルマ公フランスへ進軍命じたのである1592年末、パルマ公戦傷過労から同地死去した)。 父ウィレム遺志継いだオラニエ公マウリッツは、従兄のウィレム・ローデウェイク・ファン・ナッサウとともに軍制改革おこないスペイン軍への反撃開始した2人ヨーロッパ軍事革命英語版)の先駆者といわれ、とくにウィレム・ローデウェイクは火縄銃連続斉射考案したことで知られる一方ホラント州法律顧問のヨハン・ファン・オルデバルネフェルト(オランダ語版)は外交関係改善尽力し1596年にはイギリス・フランス両国対等同盟を結ぶことに成功したエリザベス1世アンリ4世も、連邦共和体制オランダ独立した政治勢力として扱ったのである軍事的には、1588年から1598年までの10年間でライン川マース川などの大河以北展開していたスペイン軍はすべて一掃されたうえ、ブラバント州北西部制圧されたが、オラニエ公ウィレム居城があったブレダ奪回数ある戦闘でも象徴的な意味をもっていた。1609年にはスペインとの間に「十二年休条約英語版)」が成立したが、これは事実上一時的ではあれ、スペインオランダ独立国家として認めたことを意味していた。こうして低地地方反乱は、北部連邦共和国誕生という予想外結果生んだ従来低地地方経済的繁栄アントウェルペンヘントブリュージュ中心とする南部フランドル地方限られており、連邦共和国として独立した北部オランダ南部後塵を拝する地域であったが、1590年代以降アムステルダム中心とする北部繁栄するようになり、立場逆転した近世西ヨーロッパでは、政治的な理由から大量難民発生し大規模な人口移動引き起こした事象として、15世紀末のスペインからのユダヤ人追放16世紀中葉スペイン領ネーデルラントからのプロテスタント流出16世紀末葉ネーデルラント南部から北部大量移住17世紀後半フランスからのユグノー集団亡命の4例が挙げられるが、16世紀末葉のそれはこれらのうち最大のものであった1621年三十年戦争の展開は低地地方をも巻き込んでスペインとの再戦となったが、この時期オランダ共和国軍の指揮をとったのは、マウリッツとその腹違いの弟フレデリック・ヘンドリックであった。父の政治能力と兄の軍事能力兼ね備えた人物と評価されたヘンドリック時代オランダ国力はおおいに伸長して1602年創設オランダ東インド会社などを中心として、積極的に海外進出乗り出した低地諸州のハプスブルク家への反抗から始まった八十年戦争は、さらに1648年の「ミュンスター講和」(ヴェストファーレン条約)まで続き南部国境地帯争奪戦として展開される議会国政を主導したオランダ共和国は、同時代人の証言によれば17世紀中葉にあってはカトリックカルヴァン派そのほか他宗派や態度保留者など)がそれぞれ人口の約3分の1ずつを占め多様な宗教共存する社会であった。しかし、人口過半数達しないカルヴァン派がこの国の唯一の公認宗教であり、その内部には神学者ヤーコブス・アルミニウス主張支持するアルミニウス派寛容派、レモンストラント派)とフランシスクス・ホマルス(オランダ語版)を支持するホマルス派(厳格派、コントラレモンストラント派)の論争などカルヴァン派教義をめぐり、激しい対立があった。ただし、オランダ場合には、一方で厳格派と穏健派のあいだに「だれとでもうまくやろうとする人々」と称される中間派の層が厚かったことも事実である。12年にわたるスペインとの休戦期間にはカルヴィニズム内部闘争生じ厳格派のオラニエ公マウリッツ教義上の問題でアルムニウス主義奉じる法律顧問ファン・オルデバルネフェルトを死刑処し、「国際法の父」として知られるフーゴー・グローティウス禁固刑処するという事態も生じている。この対立は、教義をめぐる対立であった同時にオランダ反乱州から独立国家歩んでいく過程終始主導権掌握していたマウリッツや海乞食団ら改革派亡命者ホマルス自身もその一人であった)と、土着の上層市民との主導権争いという性格帯びていた。 しかし、全体からみればオランダ当時ヨーロッパで最も世俗化進み宗教的多様性認められ地域であった迫害されユダヤ教徒プロテスタント少数派受け入れカトリックに対して寛容姿勢示した限定的であり、現代における「信教の自由」には遠くおよばないでも、オランダ周辺国家に先駆けて宗教的寛容実現したのは事実である。三十年戦争中理神論者ルネ・デカルト安住の地与えイングランド王政復古時代にはジョン・ロック亡命者として受け入れたのも、新思想寛大なオランダならではのことであった亡命中のロック意気投合したオランダのフィリップ・ファン・リンボルヒュ(オランダ語版)も、終生わたって宗教的寛容説いたフランス人プロテスタント寛容説いたピエール・ベールも、晩年ロッテルダム活動したのである

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