オランダの独立とイスラム
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「オスマン帝国の対プロテスタント政策」の記事における「オランダの独立とイスラム」の解説
詳細は「トルコ=カルヴァン派」を参照 基本的に、プロテスタントのオランダはカトリックにもムスリムにも強い反感をもっていた。しかし、いくつかの場合、オランダとムスリムの同盟、又は、同盟の企ては可能であった。たとえば、ポルトガルを追い出すために、モルッカ諸島のムスリムとオランダは同盟を結んだ。また、1699年にオランダがマカッサルを最終的に支配下に置いたとき、その植民地内でイスラムに対してむしろ寛容になった。 オランダ独立の時、ヤン・ファン・ナッサウの秘書が書いたように「たとえトルコであっても」、どのような国からでも援助を必要とする危機的な状況にオランダはあった。オスマン帝国のハプスブルクに対する成功をオランダは大変な関心をもって見ていた。また、地中海におけるオスマン帝国の遠征をオランダ独立戦争前線の救済の指標とみていた。オラニエ公ウィレム1世は1565年に次ぎように書いている。 「トルコ人は大変な脅威である。これは、(ハプスブルクの)王が今年オランダに来ないであろう事を意味すると、我々は信じたい。」 —1565年頃ウィレム1世が兄弟に宛てた手紙 オランダ人は、オスマンが「すでにバリャドリッドにきている」と望みながら、マルタ包囲戦(1565年)を首を長くして見ていた。そして、それをスペイン王からの譲歩を勝ち取るのに利用した。 接触は直後、より直接的になった。ウィレム1世は、援助を求めるために1566年大使をオスマン帝国に派遣した。ヨーロッパのどの国も助けようとしなかったときに、「このオランダの行為にたいして、十分に矛盾しているのだが、オスマントルコだけが積極的な援助をした。」スルタンの主要な助言者の一人であるナクソス公(Duke of Naxos) ジョセフ・ミケス(Joseph Miques)は、アントワープにいるカルヴァン派に手紙を送り、その中で、「オスマントルコの軍事力はフェリペ2世の軍隊を直ぐに破り、フランドルのことを考える閑が無いほどであろう」と誓っている。1566年後半のスレイマン大帝の逝去は、数年間オスマン帝国が支援を与えることができないことを意味した。1568年、ウィレム1世は、再びオスマン帝国にスペインを攻撃するように要請したが、成功しなかった。1566年から1568年にオランダにおける独立戦争(八十年戦争)は、最終的に失敗した。主に外国の援助が無かったからである。 1574年、ウィレム1世とフランスのシャルル9世は、ダクスの司教であり、親ユグノー派の大使フランソワ・ドゥ・ノワルを通じて、オスマン帝国のスルタン、セリム2世から再び支援を得ようとした。セリム2世は次のような支援をすることを、使者を通じて伝えた。支援のために、アルジェリアのバルバリア海賊やスペインに反抗的なモリスコとオランダが接触を続けられるように努力することであった。セリム2世は大艦隊を派遣してチュニスへ侵攻し、1574年10月に占領した。かくして、オランダに対するスペインの圧力を減らすことに成功し、ブレダ会議における交渉に導いたのである。1574年5月にシャルル9世が無くなると、接触は弱くなった。とはいえ、1575年から76年まで支援をしたし、アントワープに領事館を置いている(ギリシャ国: De Griekse Natie)。オスマン帝国はスペインと休戦し、関心をペルシャとの戦いに向け、1578年から1590年まで続く長いサファヴィー朝との戦争を始めたのである。 イギリスの作家、ウィリアム・レイノルド(William Rainolds: 1544-1594)は、『カルヴァンートルコ』と題するパンフレットを書き、これらの和解を批判している。 「教皇よりもトルコ(Liever Turuks dan Paaps)」という句は、16世紀後半オランダ独立戦争を通じてのスローガンであった。このスローガンは、オランダ傭兵海軍部隊(ゼーゴイセン。「海の乞食」の意)が、カトリック・スペインと戦うときに使われている。ゼーゴイセンの旗幟は、赤地で三日月を使うトルコの旗と似ている。「教皇よりもトルコ」という句は、スペイン王の統治下よりもオスマン帝国のスルタン統治下の生活の方がどれだけ良いかということを示す造語であった。フランドルの貴族デスクエルデス(D'Esquerdes)は、次のように記している。 「良心に反し、このような反異端な詔勅にしたがって扱われるより、トルコの臣下になった方がよい」 —フランドルの貴族デスクエルデス(D'Esquerdes)の手紙 「教皇よりもトルコ」という句は、あまりにも修辞的で、オランダ人はスルタン統治下の生活を全く考えていなかった。結局、トルコ人は異教徒であり、プロパガンダは反乱計画の(一貫した)中心的な役割を果たすことから退けられていたのである。 1608年より、サムエル・パラッシェ(Samuel Pallache)は、モロッコと低地地帯が同盟を結ぶ議論の仲介役を務めた。1613年、モロッコの大使でモリスコ出身でもあったハジャリー(Al-Hajari)は、ハーグでオランダ王子のオラニエ公マウリッツと共通の敵であるスペインに対抗して、オランダ、オスマン帝国、モロッコとモリスコとの同盟の可能性を議論をした(。本の中で、スペインへの攻撃の共闘の議論だけでなく、当時、イスラムとプロテスタントが宗教的に良い関係を持てることも記述している。 「彼らの先生(ルターとカルヴァン)は、彼ら(プロテスタント)に教皇と偶像崇拝者に対抗するよう教えた。また、偶像崇拝者に対するこの世における神の刀であるムスリムを憎まないように話している。これが、彼らがムスリム側にいる理由である。」 —ハジャリー、「無信仰者に対する宗教の守護者の本」 30年戦争(1618‐1648)の間、スペインに対抗するため、オランダはモリスコとの関係を深めていた。
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