オスマン帝国の遠征
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「オスマン帝国のアチェ遠征」の記事における「オスマン帝国の遠征」の解説
1564年、アラーウッディーンはイスタンブルに使節を派遣した。文書の中で、アラウッディンはオスマン帝国のスルターン(スレイマン1世)を、イスラーム世界のカリフ(Khalifah)と呼んでいる。 1566年にスレイマン1世が死去したのち、跡を継いだセリム2世はアチェへの艦隊派遣を命じた。それ以降、アチェに数々の兵、鍛冶職人、技術者に加えて、大量の武器や弾薬が提供された。最初にアチェに向けて出航した艦隊は15隻のガレー砲艦だったが、大部分がイエメンでの反乱鎮圧に回された。1566/7年にアチェに到着したのはわずか2隻であったが、それ以降本格的な艦隊派遣が始まった。1569年、インド艦隊提督のクルトール・フズル・レイース率いる最初の大艦隊がアチェに来航した。アチェ王は、真珠やダイヤモンド、ルビーを船員たちに贈って労に報いた。1568年にアチェはマラッカを包囲しているが、ここにオスマン帝国が直接関与していた様子は見られない。オスマン帝国としてマラッカ攻略のために大砲を輸出することは可能だったはずだが、同時期にキプロス遠征やアデンの反乱が重なり、かなわなかった。 オスマン帝国はカノン砲の製法などの技術支援も大々的に行い、その技術は東南アジア中に広まり、マカッサル、マタラム、ジャワ島、ミナンカバウ、マラッカ、ブルネイが有名な生産地となった。17世紀初頭には、アチェは実に1200門の青銅砲と、800のフランキ砲や旋回砲、マスケット銃を保有していた。
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