イヴァン・アレクサンダル没後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 07:07 UTC 版)
「イヴァン・スラツィミル」の記事における「イヴァン・アレクサンダル没後」の解説
1371年2月17日にイヴァン・アレクサンダルが没した後、イヴァン・スラツィミルはタルノヴォの帝室との連絡を止め、形式上の支配権の確認すら行われなくなった。イヴァン・スラツィミルは帝位に就いたイヴァン・シシュマンと同格の君主として扱われ、史料の細部にはイヴァン・スラツィミルがイヴァン・シシュマンよりも上位の支配者と仄めかされている記述も存在する。Konstantin Jirečekら過去のブルガリアの歴史家は、断片的な情報からイヴァン・スラツィミルとイヴァン・シシュマンはソフィアで交戦した仮説を立てたが、後代の多くの史学者によって両者が戦ったという仮説は否定されている。事実、二人は敵対しているにもかかわらず1381年まで関係を維持し続け、イヴァン・シシュマンは兄を帝位継承者候補だと考えていた節もある。一方、東欧史学者のJ.ファインは、イヴァン・スラツィミルは父が没してすぐにブルガリア全土を掌握するための行動を開始し、1-2年間ソフィアを占領したことが兄弟の関係にしこりを残し、後に起きるオスマン軍のブルガリア侵攻に国内が一致団結して抵抗する機会が失われたと推察している。 1381年にイヴァン・スラツィミルはタルノヴォに置かれているブルガリア正教会との関係を絶ち、代わりにコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にヴィディンに大司教を置いたため、二人のブルガリア皇帝の関係は悪化する。ヴィディン大司教の設置という形でイヴァン・スラツィミルがタルノヴォからの独立の意思を表明した後も、ヴィディンとタルノヴォの間に内戦は起きなかった。しかし、兄弟の遺恨はオスマン帝国のブルガリア遠征の直前まで残った。1388年にオスマン皇帝ムラト1世がブルガリア北東部で大規模な軍事作戦を開始した後、イヴァン・スラツィミルとイヴァン・シシュマンの間には大きな溝ができていた。オスマン帝国の遠征が成功に終わるとブルガリアの勢力図は変化し、イヴァン・スラツィミルはオスマン帝国に臣従を誓い、オスマン軍のヴィディンへの駐屯を認めざるを得なくなる。セルビア公ラザル・フレベリャノヴィチが反オスマン同盟の結成をバルカン半島のキリスト教勢力に呼びかけたときにも、イヴァン・スラツィミルは同盟に加わらず、オスマン帝国に忠誠を誓い続けた。1393年にタルノヴォがオスマン帝国に占領された後もヴィディンは独立を保ち続けたが、1395年にイヴァン・シシュマンは殺害される。 1396年、イヴァン・スラツィミルはハンガリー王ジグモンドが提唱した反オスマン連合軍に参加する。十字軍がヴィディンに到達した時、イヴァン・スラツィミルは城門を開けてオスマン帝国の駐屯部隊を引き渡した。オリャホヴォに駐屯していたオスマンの部隊はヴィディンの反乱の鎮圧に向かうが、現地の民衆によって捕らえられる。しかし、9月25日のニコポリスの戦いで十字軍は大敗し、戦闘に勝利したオスマン皇帝バヤズィト1世はただちにヴィディンに進軍し、1396年末/97年初頭に町を制圧した。捕虜となったイヴァン・スラツィミルはオスマン帝国の首都ブルサの牢に投獄され、この地で絞殺されたと考えられている。
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