オスマン帝国の落日と西欧の勃興、そして民族の覚醒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 19:20 UTC 版)
「トルコクラティア」の記事における「オスマン帝国の落日と西欧の勃興、そして民族の覚醒」の解説
オスマン帝国は宗教、言語、民族の異なる人々を統合し、共存を図ることでゆるやかに包み込み、オスマン帝国による支配体制を保っていた。しかし16世紀末から17世紀末になると西欧が近代化することで西欧が徐々に優位に立って行った。18世紀に入ると「西欧の衝撃」として西欧から軍事的、外交的な外圧が加えられた。これに対してオスマン帝国は徐々に近代化を図ろうとしていったが、これは軍事的、技術的な部分に限られ、思想、文化の分野における関心は19世紀前半に入るまで及ばなかった。 一方、ギリシャ系正教徒らはオスマン帝国支配の元でも西欧と接触を保っていた。彼らは18世紀になるとロシア南部のオデッサなどで通商に携わり始めたが、彼らの中には近代西欧の文化と思想に関心を持つ人々が生まれ、中にはギリシャ・ナショナリズムの先駆者に影響を与えた者もいた。 これらの「西欧の衝撃」に感応したオスマン帝国内の人々は「オスマンの平和」という枠組みを内から突き崩す原動力となり、さらに近代ギリシャ・ナショナルを育んだ。そして外部からの「西欧の衝撃」はこの内からの「西欧の衝撃」と結びつき、やがてギリシャ独立運動へ進む人々を生んでいった。
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