オスマン帝国の登場とビザンツ帝国の滅亡
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「トルコクラティア」の記事における「オスマン帝国の登場とビザンツ帝国の滅亡」の解説
「コンスタンティノープルの陥落」も参照 一方でビザンツ帝国も第四回十字軍の遠征によって首都コンスタンティノープルが占領され、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国、エピロス専制侯国などに分裂した。1261年にニカイア帝国がコンスタンティノープルを回復してビザンツ帝国は再興したが、この出来事はビザンツ帝国の弱体化を急激に進め、バルカン半島の諸勢力は自立の機運を高めていった。 ビザンツ帝国の影響が弱まったバルカン半島は西部をステファン・ウロシュ4世ドゥシャン率いるセルビア王国が、東部をブルガリア帝国が支配しており、ビザンツ帝国領はトラキア、ストリュモン、テッサロニキ及びその周辺、ペロポネソス半島の一部と化しており、島嶼部ではほとんどの部分をラテン人らが占領していた。そのため、ギリシャはセルビア領、ブルガリア領、ラテン人領主による統治、そしてビザンツ領となっていた。 さらにドゥシャンが死去するとセルビアは解体し、ブルガリアもイヴァン・アレクサンドルによる制度改革によって分裂し始めていた。そしてエペイロスはアルバニア人、イタリア人らによって分断されており、アテネ公国のフィレンツェ人ネリオ1世 (en) はヴェネツィアに町を委ねていたが、ヴェネツィア自身も海ではオスマン帝国に対抗できたが、陸ではオスマン帝国の敵ではなかった。 この状況の中、アナトリアでは後にオスマン帝国となるオスマン集団が発生した。彼らはアナトリアにおけるムスリム影響下の最西北で発生したが、ムスリムとビザンツの国境地帯であるという有利な条件を元にしてアナトリアのビザンツ領を占領していった。オスマン帝国二代目、オルハンの時代にはビザンツ領のプルサを占領、ここを首都としてから急激に勢力を増し、14世紀中頃までにはアナトリア最西北部を占領、ビザンツ帝国首都コンスタンティノープルの対岸、スクタリさえも占領していたと言われ、さらにオルハンの時代の1354年にダーダネルス海峡を越えてゲリボルを占領していた。 1360年頃、オルハンが死去するとムラト1世が後を継いだが、ムラト1世の元で諸制度が整備され、その配下にはムスリム・トルコ系の人々だけではなくビザンツ帝国に使えていた軍人らも属していた。ムラト1世は1361年、バルカン半島へ出兵、翌年にはアドリアノープル(この後トルコ人たちによってエディルネと呼ばれるようになった)を占領、ここを拠点としたが、これはビザンツ帝国の背後を奪ったことを意味していた。 そしてムラト1世がバルカン半島に進出するとトラキアの大半がオスマン帝国領と化し、1371年のマリツァの戦いでセルビア諸侯連合軍を撃破したことでセルビア、ブルガリア、ビザンツはオスマン帝国に臣従し、1387年にはマヌエル・パライオロゴスの元で抵抗を続けていたテッサロニキが陥落、さらに1389年にコソボの戦いでバルカン諸勢力連合軍が撃破されるとバルカン半島がオスマン帝国領となるのは時間の問題となり、1393年、ブルガリア帝国は崩壊、1394年にはコンスタンティノープルを包囲しながらもギリシャへの進出を進めた。 コソボの戦いではムラト1世が暗殺されたが、この後を即時に継いだ息子バヤズィト1世はさらにバルカン半島への進出を進め、テッサロニキとその周辺部がオスマン帝国領土となった。しかし、1402年、中央アジアで勃興したティムールをアンカラで迎え撃ったが、オスマン軍はこれに敗れ、バヤズィト1世が捕虜となり、翌年死去した。これに伴い、ティムールはアナトリアにおけるオスマン領をオスマン帝国が占領する以前の領主へ戻し与えたため、オスマン帝国はアナトリアにおける領土の多くを失った。バルカン半島における領土はテッサロニキを除いてほとんどが残ったものの、バヤズィト1世の後継を巡る争いが発生したため、その維持さえも危ぶまれる状況となった。 しかし、1413年、メフメト1世が後継者争いに勝利、分裂しかけていたオスマン領の統一にも成功した。そしてメフメト1世と次代、ムラト2世らは失地回復に勤しみ、1422年にはコンスタンティノープルが再度包囲できるまで回復を見せた。その一方でテッサロニキの町は防衛が困難であることから1423年にヴェネツィアに譲られていたが、これも1430年に再占領、同年、ヨアニナの占領にも成功し、翌年、エペイロスがオスマン領となった。 一方でペロポネソス半島では後にローマ最後の皇帝となるモレア専制公コンスタンティノスが勢力を広げており、1430年、パトラスを占領してニカイア公国の併合に成功、ペロポネソス半島における沿岸部のヴェネツィア領以外を全て併合した。そして1445年から1446年にかけてアテネ、テーバイを占領、さらにテッサリアまで進出してピンドス山脈にまで勢力を広げ、ビザンツ復興への一筋の希望を見出していた。これに対してオスマン帝国は反撃を開始、コリントス地峡のヘキサミリオン要塞を撃破してペロポネソス半島を脅かした。 1430年以降、ビザンツ帝国は自らの滅亡を予感しており、1438年から翌年にかけて行われたフィレンツェ公会議においてビザンツ皇帝ヨハネス8世は自ら出席して東西教会の合同を認め署名したが、これは西ヨーロッパからの援軍を頼りにせざるを得ない状況であったため行ったものであった。しかし、結局、西ヨーロッパから援軍が到着することはなかった。 1451年、ムラト2世が死去し、息子のメフメト2世が後を継ぐと君主交代をチャンスと見た対立国、カラマン君侯国 (en) が侵略を開始した。そして、すでに弱小国となっていたビザンツ帝国の皇帝、コンスタンティノス11世パレオロゴスはこれを好機と見て、オスマン帝国と対立した。これに対してメフメット2世はカラマン君侯国を1452年に撃退、その夏にはコンスタンティノープル包囲の準備に入った。 1452年冬から1453年春にかけて、メフメト2世はコンスタンティノープル包囲のための準備に勤しみ、3月末、エディルネを出発、4月初めにコンスタンティノープルの包囲を開始した。そして5月29日、オスマン帝国軍の総攻撃によってコンスタンティノープルは陥落、1460年には最後まで抵抗を続けていたミストラが陥落、ここにビザンツ帝国は滅亡し、古代ローマの命脈も絶たれた。
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