オスマン帝国の登場とビザンツ帝国の滅亡とは? わかりやすく解説

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オスマン帝国の登場とビザンツ帝国の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 19:20 UTC 版)

トルコクラティア」の記事における「オスマン帝国の登場とビザンツ帝国の滅亡」の解説

コンスタンティノープルの陥落」も参照 一方でビザンツ帝国第四回十字軍遠征によって首都コンスタンティノープル占領されニカイア帝国トレビゾンド帝国エピロス専制侯国などに分裂した1261年ニカイア帝国コンスタンティノープル回復してビザンツ帝国再興したが、この出来事ビザンツ帝国弱体化急激に進めバルカン半島諸勢力自立機運高めていった。 ビザンツ帝国影響弱まったバルカン半島西部ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン率いセルビア王国が、東部ブルガリア帝国支配しており、ビザンツ帝国領はトラキア、ストリュモン、テッサロニキ及びその周辺ペロポネソス半島一部化しており、島嶼部ではほとんどの部分ラテン人らが占領していた。そのため、ギリシャセルビア領、ブルガリア領、ラテン人領主による統治、そしてビザンツとなっていた。 さらにドゥシャンが死去するセルビア解体しブルガリアもイヴァン・アレクサンドルによる制度改革によって分裂し始めていた。そしてエペイロスアルバニア人イタリア人らによって分断されており、アテネ公国フィレンツェ人ネリオ1世 (en) はヴェネツィアに町を委ねていたが、ヴェネツィア自身も海ではオスマン帝国対抗できたが、陸ではオスマン帝国の敵ではなかった。 この状況の中、アナトリアでは後にオスマン帝国となるオスマン集団発生した。彼らはアナトリアにおけるムスリム影響下の最西北発生したが、ムスリムビザンツ国境地帯であるという有利な条件元にしてアナトリアビザンツ領を占領していった。オスマン帝国二代目オルハン時代にはビザンツ領のプルサを占領、ここを首都としてから急激に勢力増し14世紀中頃までにはアナトリア西北部占領ビザンツ帝国首都コンスタンティノープル対岸スクタリさえも占領していたと言われ、さらにオルハン時代1354年ダーダネルス海峡越えてゲリボル占領していた。 1360年頃、オルハン死去するムラト1世が後を継いだが、ムラト1世の元で諸制度整備され、その配下にはムスリム・トルコ系の人々だけではなくビザンツ帝国使えていた軍人らも属していた。ムラト1世1361年バルカン半島出兵翌年にはアドリアノープル(この後トルコ人たちによってエディルネ呼ばれるようになった)を占領、ここを拠点としたが、これはビザンツ帝国背後奪ったことを意味していた。 そしてムラト1世バルカン半島進出するトラキア大半オスマン帝国領化し1371年マリツァ戦いでセルビア諸侯連合軍撃破したことでセルビアブルガリアビザンツオスマン帝国臣従し、1387年にはマヌエル・パライオロゴスの元で抵抗続けていたテッサロニキ陥落、さらに1389年コソボの戦いバルカン諸勢力連合軍撃破されるとバルカン半島オスマン帝国領となるのは時間の問題となり、1393年ブルガリア帝国崩壊1394年にはコンスタンティノープル包囲しながらもギリシャへの進出進めたコソボの戦いではムラト1世暗殺されたが、この後即時継いだ息子バヤズィト1世はさらにバルカン半島への進出進めテッサロニキその周辺部がオスマン帝国領となった。しかし、1402年中央アジア勃興したティムールアンカラ迎え撃ったが、オスマン軍はこれに敗れバヤズィト1世捕虜となり、翌年死去したこれに伴いティムールアナトリアにおけるオスマン領をオスマン帝国占領する以前領主戻し与えたため、オスマン帝国アナトリアにおける領土多く失ったバルカン半島における領土テッサロニキ除いてほとんどが残ったものの、バヤズィト1世後継を巡る争い発生したため、その維持さえも危ぶまれる状況となった。 しかし、1413年メフメト1世後継者争い勝利分裂しかけていたオスマン領の統一にも成功した。そしてメフメト1世次代ムラト2世らは失地回復勤しみ、1422年にはコンスタンティノープル再度包囲できるまで回復見せた。その一方でテッサロニキの町は防衛が困難であることから1423年ヴェネツィア譲られていたが、これも1430年に再占領同年ヨアニナ占領にも成功し翌年エペイロスオスマンとなった一方でペロポネソス半島では後にローマ最後の皇帝となるモレア専制公コンスタンティノス勢力広げており、1430年パトラス占領してニカイア公国併合成功ペロポネソス半島における沿岸部ヴェネツィア領以外を全て併合した。そして1445年から1446年にかけてアテネテーバイ占領、さらにテッサリアまで進出してピンドス山脈にまで勢力広げビザンツ復興へ一筋希望見出していた。これに対してオスマン帝国反撃開始コリントス地峡のヘキサミリオン要塞撃破しペロポネソス半島脅かした1430年以降ビザンツ帝国は自らの滅亡予感しており、1438年から翌年にかけて行われたフィレンツェ公会議においてビザンツ皇帝ヨハネス8世は自ら出席して東西教会合同認め署名したが、これは西ヨーロッパからの援軍頼りせざるを得ない状況であったため行ったものであった。しかし、結局西ヨーロッパから援軍到着することはなかった。 1451年ムラト2世死去し息子メフメト2世後を継ぐ君主交代チャンス見た対立国、カラマン君侯国 (en) が侵略開始した。そして、すでに弱小となっていたビザンツ帝国皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスはこれを好機見てオスマン帝国対立した。これに対してメフメット2世カラマン君侯国1452年撃退、その夏にはコンスタンティノープル包囲準備入った1452年冬から1453年春にかけて、メフメト2世コンスタンティノープル包囲のための準備勤しみ、3月末、エディルネ出発4月初めにコンスタンティノープル包囲開始した。そして5月29日オスマン帝国軍総攻撃によってコンスタンティノープル陥落1460年には最後まで抵抗続けていたミストラ陥落、ここにビザンツ帝国滅亡し古代ローマ命脈絶たれた。

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