オスマン帝国の時代 - 教皇の島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 07:11 UTC 版)
「シロス島」の記事における「オスマン帝国の時代 - 教皇の島」の解説
16世紀までにエーゲ海はオスマン帝国の艦隊が掌握し、ヴェネツィア勢力は分断された。1522年、私掠船の船長だったバルバロス・ハイレッディンが島を征服した。オスマン時代、島は「シレ」として知られた。しかし、地元当局とオスマン帝国との交渉の結果、キクラデス諸島には税の軽減や信教の自由など、大幅な特権が与えられた。同時に、フランスおよび教皇庁とオスマン当局とのあいだに成立した協定で、島のカトリック教徒はフランスと教皇庁の保護下に入った[要出典]。 シロス島には、ナクソスの属司教区であるカトリックのシラ教区が置かれた。すでにヴェネツィア人はこの島にカトリック司教区を置き、それは1525年までアテネ大司教区に所属していた。トルコ人に島が占領された16世紀から、ギリシア人はシロス島に首都大司教を置いた。ヨセフ が判明している最も早い大司教で、それからシメオン(1594年没)、イグナティウス(1596年没) と続いた。島民はほとんどがカトリック教徒になった。 17世紀後半から、エーゲ海地域の経済は回復に向かい、18世紀から19世紀の変わり目に最高潮に達した。島々に認められた特殊な統治方式は、自治の発達を可能にした。19世紀初頭に海賊が減少しはじめると、東地中海の海上交通は次第に活発化した。
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