オスマン帝国の滅亡とトルコ共和国の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)
「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「オスマン帝国の滅亡とトルコ共和国の成立」の解説
詳細は「希土戦争 (1919年-1922年)」、「トルコ革命」、および「ケマル・アタテュルク」を参照 第一次世界大戦が終了するとオスマン帝国は、解体の危機に瀕した。ヨーロッパ列強の思惑が錯綜したため、帝国の分割は進まなかったものの「大ギリシャ主義」を標榜するギリシャがイギリスの支援を受けて、アナトリアに進出を開始した。また、帝国の関心は自らの地位の保証とイスタンブールの保全だった。また、アナトリアには、「統一と進歩委員会」の最高幹部が海外から帰国して抵抗準備を進めていたが、指導者を欠いており、同時に、アルメニア人・ギリシャ人の独立運動も活発化していた。こうした状況のなかで登場したのが、ケマル・パシャ(後のケマル・アタテュルク)である。帝国政府は、アナトリアに駐留する軍隊が政府を無視して反乱することを恐れたため、1919年5月5日、第9軍監察官に任命した。 ケマルは、「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」を結成し、東部召集の帝国からの離脱の阻止に成功すると、1919年末に召集された帝国議会をも影響下に入れ、トルコ人が多数を占める地域が不可分であること、カピチュレーションの廃止を骨子とする「国民誓約」を宣言した。とはいえ、この委員会の行動自体、連合国の思惑とは大きくかけ離れていたために、ヨーロッパ諸国はトルコへの介入をはじめた。帝都イスタンブールは3月に占領され、ギリシャ軍はアナトリア内陸部に進出を開始した。帝国政府が議会を解散するにいたり、首都を脱出した議員を中心に、4月23日、アンカラで大国民会議が開催された。その結果、ケマルは議長に選出されると同時に、アナトリアを中心とするアンカラ政府はヨーロッパ諸国と戦い、トルコ独立の維持に尽力することとなった。 1921年、3週間にわたって、ギリシャとアンカラ政府は、サカリヤ川で激戦を展開した。ギリシャ軍を撃退したアンカラ政府は、徐々に各国政府により認知されるようになった。その翌年には、イズミルを奪還することに成功し、独立戦争を完遂した。独立戦争を完遂したケマルにとって、次の障害は、帝国政府だった。セーヴル条約改定のための協議をローザンヌで開催するための招聘状が帝国政府とアンカラ政府のそれぞれに送られた。ケマルは、1922年11月1日の大国民会議の決議において、スルタン制とカリフ制を分離し、スルタン制のみを廃止することを決めた。これにより、600年の歴史を誇ったオスマン帝国は終焉を迎え、メフメト6世はイギリス軍艦でマルタへ亡命した。 ローザンヌ条約は、トルコの独立、関税自主権の回復、治外法権の廃止が内容に盛り込まれ、ケマルの指導者の立場は固まった。1923年10月29日、ケマルは、大統領に就任し、現在に至る世俗国家の建設が始まった。ケマルは死ぬまで、大統領の座に君臨し続けたが、トルコを大胆にも西洋化する政策を進めていった。トルコ語のアルファベット表記への変更、イスラームを国教と定めていた憲法の条文の削除、トルコ帽の廃止、姓を持つことの義務化といった内容である。 とはいえ、1911年の伊土戦争以降、第一次世界大戦、ギリシャとの戦争と11年間続いた戦争で、トルコ共和国の民族構成は大きく変化していった。共和国からは、帝国の商業を担っていた集団であるギリシャ人は去り、150万人ほどいたアルメニア人は虐殺を経験し各地へ移住した。250万人の人口が戦争で命を落とした。さらに、帝国の経済的基盤だったバルカン半島のほとんどを喪失し、アナトリアは人口の激減により、経済的にも疲弊していった。疲弊した経済の本格的な再建は、1930年以降、成功しなかった民間企業の育成から国家資本主義へ舵をとることを始まりとする。
※この「オスマン帝国の滅亡とトルコ共和国の成立」の解説は、「近代から現代にかけての世界の一体化」の解説の一部です。
「オスマン帝国の滅亡とトルコ共和国の成立」を含む「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事については、「近代から現代にかけての世界の一体化」の概要を参照ください。
- オスマン帝国の滅亡とトルコ共和国の成立のページへのリンク