オスマン帝国の脅威と市壁増築
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「ウィーンの歴史」の記事における「オスマン帝国の脅威と市壁増築」の解説
弱小貴族として出発したハプスブルク家は、婚姻政策を通じて急速に勢力を拡大させ、16世紀前半には、皇帝カール5世のもとで普遍的なキリスト教帝国樹立を目指すようになった。しかし、これを妨げたのがマルティン・ルターの宗教改革であり、オスマン帝国(イスラーム勢力)のドナウ川西進であった。1529年、すでにハンガリーの多くを制圧していたスレイマン1世は、10万以上の軍勢を引き連れてウィーン城壁まで迫った。キリスト教世界を震撼させた第1次ウィーン包囲である。13世紀に建設されていた市壁が堅固だったことと、予想より冬の到来が早かったことで、オスマン帝国はその年のうちに撤退した。 この後まもなく、オスマン帝国の再襲に備えるため、イタリアなどから技術者を招いて脆弱だったケルントナー門周辺などの強化が図られた。また、防衛上の観点から城壁周辺に空き地(「グラシ」と称される)を設けた。市壁に砲撃を試みる場合はこの空き地(グラシ)に陣を構えることになるため、市壁から彼らを一斉射撃できるようになったのである。一連のウィーン改造は17世紀後半まで続き、1680年までにほぼ完了した。第2次ウィーン包囲は1683年なので、かろうじて間に合ったことになる。 17世紀前半、ヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争は、ハプスブルク家の威勢を弱めさせたが、戦場から外れたウィーンに大きな打撃はなかった。ウィーンが様々な危機に直面するのは、三十年戦争が終わった17世紀後半からである。まず、1670年代にはペストが大流行して数万人にものぼる多くの死者を出した。アム・グラーベン街に、この際のペストの記念柱が建てられている。1682年にはハレー彗星が接近し、これを何かの凶兆とする噂が流れ市民は恐怖におののいた。そうした中、1683年にウィーンの弱体化につけこんで、オスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ・パシャの主導で第2次ウィーン包囲が決行された。15万以上の軍勢が再びウィーンへと迫るが、バイエルン、ザクセン、ポーランドなどの援助を得て、再びオスマン帝国の進撃を退けることに成功した。これ以後は、ハプスブルク家とオスマン帝国の力関係が逆転し、今後はハプスブルク家がドナウ川を東進し、複合民族国家としての「ドナウ帝国」を形成していくことになる。異教徒との衝突は、同時に文化的交流も引き起こした。この時のオスマン帝国との衝突を通じて、ウィーンにカーヴァ(コーヒー)がもたらされたともいわれる。 第2次ウィーン包囲を経て、旧市街の外側に新たな市壁(リーニエンヴァル)を設けることになった。1704年より、第二次ウィーン包囲のオスマン帝国軍がとった陣形のように、ウィーンを囲む形で市壁の建設が進められた。この建設にはウィーン市民がかりだされ、3ヶ月程度で完成へと至った。市壁が拡張されたことで、ウィーンの街は大きな変化を迎えることになった。従来の市壁と新市壁の間のスペース(「フォアシュタット」と称され、新市壁の外は「フォアオルト」と称された)に、貴族がこぞって宮殿建設を進めたのである。このフォアシュタットに建てられた建築物の代表例が、プリンツ・オイゲンの命で建てられたベルヴェデーレ宮殿である。この時代にはシュヴァルツェンベルク宮殿、シェーンブルン宮殿などバロック的な宮殿があいついで建設され、ウィーンの街を彩ることになった。 当時勃興しつつあった富裕市民も、フォアシュタットに豪華な邸宅を構えることを目指した。ウィーンの皇帝や貴族はこぞって芸術家のパトロン役をつとめたため、各地から芸術家が訪れ、芸術の街としての土台がつくられていった。貴族の中には、雇った音楽家たちで楽団を作ったり、貴族自らがその楽団に参加することもあった。1750年代、宮廷はこの都市の劇場であるブルク劇場とケルントナートーア劇場の運営権を握るようになった。1756年に外交革命(オーストリア・ハプスブルク家とフランス・ブルボン家の和解)が実現したため、フランスの楽劇団も訪れるようになった。こうした中、1762年にまだ子供のモーツァルトが、シェーンブルン宮殿に招かれてマリア・テレジアにピアノ演奏を披露している。1790年代には貴族個人による音楽保護は衰退していったものの、音楽サロンや公園での公開演奏会は増加していった。モーツァルトも予約コンサートを開き、オーケストラを雇い、自身の協奏曲を披露している。ベートーヴェンも1792年にここに訪れ、多くの貴族が彼の後援者になり経済的な援助をしている。この頃のウィーンの人口は約15万程度と考えられている。
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