オスマン帝国の脅威と市壁増築とは? わかりやすく解説

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オスマン帝国の脅威と市壁増築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:39 UTC 版)

ウィーンの歴史」の記事における「オスマン帝国の脅威と市壁増築」の解説

弱小貴族として出発したハプスブルク家は、婚姻政策通じて急速に勢力拡大させ、16世紀前半には、皇帝カール5世のもとで普遍的なキリスト教帝国樹立目指すようになった。しかし、これを妨げたのがマルティン・ルター宗教改革であり、オスマン帝国イスラーム勢力)のドナウ川西進であった1529年、すでにハンガリー多く制圧していたスレイマン1世は、10万上の軍勢引き連れてウィーン城壁まで迫ったキリスト教世界震撼させた第1次ウィーン包囲である。13世紀建設されていた市壁堅固だったことと、予想より冬の到来早かったことで、オスマン帝国はその年のうちに撤退したこの後まもなく、オスマン帝国の再襲に備えるため、イタリアなどから技術者招いて脆弱だったケルントナー門周辺などの強化図られた。また、防衛上の観点から城壁周辺空き地(「グラシ」と称される)を設けた市壁砲撃試み場合はこの空き地グラシ)に陣を構えることになるため、市壁から彼らを一斉射撃できるようになったのである一連のウィーン改造17世紀後半まで続き1680年までにほぼ完了した第2次ウィーン包囲1683年なので、かろうじて間に合ったことになる。 17世紀前半ヨーロッパ全体巻き込んだ三十年戦争は、ハプスブルク家威勢弱めさせたが、戦場から外れたウィーン大きな打撃はなかった。ウィーン様々な危機直面するのは、三十年戦争終わった17世紀後半からである。まず、1670年代にはペスト大流行して数万人にものぼる多く死者出した。アム・グラーベン街に、この際ペスト記念建てられている。1682年にはハレー彗星接近し、これを何かの凶兆とする噂が流れ市民恐怖おののいたそうした中、1683年ウィーン弱体化つけこんでオスマン帝国大宰相カラ・ムスタファ・パシャ主導第2次ウィーン包囲決行された。15上の軍勢が再びウィーンへと迫るが、バイエルンザクセンポーランドなどの援助得て、再びオスマン帝国進撃退けることに成功した。これ以後は、ハプスブルク家オスマン帝国力関係逆転し今後ハプスブルク家ドナウ川東進し複合民族国家としてのドナウ帝国」を形成していくことになる。異教徒との衝突は、同時に文化的交流引き起こした。この時のオスマン帝国との衝突通じてウィーンにカーヴァ(コーヒー)がもたらされたともいわれる第2次ウィーン包囲経て旧市街外側新たな市壁リーニエンヴァル)を設けることになった1704年より、第二次ウィーン包囲オスマン帝国軍がとった陣形のように、ウィーンを囲む形で市壁建設進められた。この建設にはウィーン市民がかりだされ、3ヶ月程度完成へと至った市壁拡張されたことで、ウィーンの街は大きな変化迎えることになった従来市壁新市壁の間スペース(「フォアシュタット」と称され新市壁の外は「フォアオルト」と称された)に、貴族こぞって宮殿建設進めたのである。このフォアシュタットに建てられ建築物代表例が、プリンツ・オイゲンの命で建てられベルヴェデーレ宮殿である。この時代にはシュヴァルツェンベルク宮殿シェーンブルン宮殿などバロック的な宮殿あいついで建設されウィーンの街を彩ることになった当時勃興しつつあった富裕市民も、フォアシュタットに豪華な邸宅構えることを目指した。ウィーン皇帝貴族こぞって芸術家のパトロン役をつとめたため、各地から芸術家訪れ芸術の街としての土台つくられていった貴族中には雇った音楽家たちで楽団作ったり、貴族自らがその楽団参加することもあった。1750年代宮廷はこの都市劇場であるブルク劇場ケルントナートーア劇場運営を握るようになった1756年外交革命オーストリア・ハプスブルク家フランス・ブルボン家和解)が実現したため、フランス楽劇団も訪れようになったこうした中、1762年まだ子供のモーツァルトが、シェーンブルン宮殿招かれマリア・テレジアピアノ演奏披露している。1790年代には貴族個人による音楽保護衰退していったものの、音楽サロン公園での公開演奏会増加していった。モーツァルト予約コンサート開きオーケストラ雇い自身協奏曲披露している。ベートーヴェン1792年にここに訪れ多く貴族彼の後援者になり経済的な援助をしている。この頃ウィーン人口は約15程度考えられている。

※この「オスマン帝国の脅威と市壁増築」の解説は、「ウィーンの歴史」の解説の一部です。
「オスマン帝国の脅威と市壁増築」を含む「ウィーンの歴史」の記事については、「ウィーンの歴史」の概要を参照ください。

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