オスマン帝国の様相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:00 UTC 版)
「近世から近代にかけての世界の一体化」の記事における「オスマン帝国の様相」の解説
カルロヴィッツ条約により領土の削減を余儀なくされたオスマン帝国だったが、1700年には大北方戦争に巻き込まれ、スウェーデン王カール12世の逃亡を受け入れたため、ピョートル1世治下で国力増大の著しいロシア帝国との間で苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、1711年のプルート川の戦いで有利な講和を結ぶことに成功したが、つづくオーストリア・ヴェネツィア共和国との戦争の結果、1718年のパッサロヴィッツ条約でセルビアの重要拠点ベオグラードを失った。 このように、17世紀後葉から18世紀にかけてのオスマン帝国は、軍事的には東欧絶対主義諸国に押されて、かつての栄光を失いつつあったが、18世紀に入ると、ヨーロッパの新しい制度や文化を積極的に取り入れて、帝国統治のしくみをかえようとする改革派の人びともあらわれた。アフメト3世の宰相イブラヒム・パシャの執政時代には対外的融和政策が採られ、平和を謳歌する雰囲気のなかで西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時期を、西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼称する。 一方、18世紀には、政府にかわって地方の徴税権を掌握したアーヤーンが経済的な力をたくわえ、かれらの手に支えられた緩やかな経済発展が進んだものの、地域一帯に影響力をもつ名士が各地に台頭し、地方社会の自立化が進んだ。
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