バルカン半島への進出とは? わかりやすく解説

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バルカン半島への進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:43 UTC 版)

オルハン」の記事における「バルカン半島への進出」の解説

このようにオスマン帝国東ローマ帝国の間には軍事衝突頻繁に起きていたが、当時東ローマ帝国オスマン帝国よりもサルハン侯国アイドゥン侯国危険視しており、やがて両国の間に同盟関係生まれる。オルハン東ローマ皇帝アンドロニコス3世初め対面したのは1333年ニコメディア包囲と言われカレスィ侯国牽制するために両国同盟した1341年アンドロニコス3世没後東ローマ帝国ではヨハネス5世パレオロゴスヨハネス6世カンタクゼノスの間で帝位をめぐる内紛起こり二国間同盟はより重要性増したヨハネス5世ヨハネス6世はいずれアナトリア半島ベイリク国家同盟を結び、オルハンはその一方であるヨハネス6世味方して彼の登極助けた1346年オルハンヨハネス6世の娘テオドラ英語版)を妻に迎えヨハネス6世敵対するヨハネス5世およびセルビア王国攻撃するため、6000兵士バルカン半島派遣1337年オスマン軍初めヨーロッパ渡りトラキア略奪行ったバルカン半島での軍事作戦においては長子スレイマン英語版)の活躍大きくセルビアステファン・ウロシュ4世ドゥシャンによるサロニカ攻撃阻止、チョルル(英語版)の制圧は、いずれもスレイマン軍功である。 1352年から1353年の間に、ヨハネス6世への援助引き換えオルハンはカリポリス(現・ゲリボル付近のチンペ城砦英語版)を獲得した1354年3月2日にカリポリス一帯大地震見舞われ、カリポリスの街と城壁被害を被ると、スレイマンはこの地震乗じてカリポリスとテキルダー、ボラユル(英語版)、マルカラ英語版)などのマルマラ海沿いの地域占領したヨハネス6世オスマン帝国占領した都市返還両国友好関係訴え、また見返りとして大金支払い提案したオルハン要求応じず、バルカン半島入り口となる拠点手放そうとはしなかった。 一連のバルカン半島へのオスマン進出は「蛮族入寇」とは全く異質のものであり、こうしたオスマン側の動向受けてヨハネス5世オルハンの子ハリル英語版)に娘を嫁がせ、オスマン帝国との関係強化図った

※この「バルカン半島への進出」の解説は、「オルハン」の解説の一部です。
「バルカン半島への進出」を含む「オルハン」の記事については、「オルハン」の概要を参照ください。

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