バルカン半島の「解放」とは? わかりやすく解説

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バルカン半島の「解放」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:04 UTC 版)

バルカン戦線」の記事における「バルカン半島の「解放」」の解説

バグラチオン作戦)、(ヤッシーキシニョフ戦い)も参照 1944年6月22日ソ連軍大規模な反攻バグラチオン作戦発動前年7月クルスクの戦い以降じわじわ西へ押し返されていたドイツ軍はついに崩壊し戦線一気ポーランドへ、そしてハンガリールーマニアブルガリア国内へとなだれ込んできた。 1944年8月20日ソ連第2・第3ウクライナ方面軍ルーマニア領内への侵攻開始。これを受けて8月23日ルーマニア26日ハンガリー相次いでドイツとの同盟解消、さらに8月25日にはルーマニア9月8日にはブルガリアドイツ対し宣戦布告した。しかしソ連そのような窮余寝返り容認せず、ルーマニア軍ブルガリア軍1944年11月28日ソ連軍編入され同年10月15日ドイツ軍による「パンツァーファウスト作戦戦線離脱機会逃したハンガリー対す攻撃一翼を担わされた。そして各国戦後までソ連占領下置かれることになった。 (ブダペストの戦い)、(ウィーン攻略戦)、(プラハの戦い)も参照 ギリシャアルバニアユーゴスラビアでは、1944年夏に東部戦線崩壊する同地駐留するドイツE軍集団F軍集団が総退却移った1944年10月4日にはギリシャイギリス軍上陸エーゲ海島々一握り都市ドイツ軍占領下に残るのみとなった11月29日にはホッジャ率いパルチザンアルバニア掌握しユーゴスラビアでもドイツ軍敗走重ねるばかりとなったドイツ軍それまでパルチザン捕虜何をしてきたかを考えればドイツ軍パルチザン捕虜になった場合どうなるかは明白だった1945年春、チトードイツ軍駆逐し内戦状態国内主導権を握ることにも成功し、ついに3月7日ユーゴスラビア連邦成立させた。ユーゴスラビアソ連軍の力を借りず現地パルチザンによって「解放」された珍しい国となり、戦後相次いで共産化され、ソ連衛星国化していった他のバルカン半島諸国とは違う政治路線歩むことになった。 (コミンフォルム)、(チトー主義) (ギリシャ内戦)も参照 ギリシャ共産党ゲリラ政府軍内戦続いたが、1949年イギリスアメリカ支援より政府軍が勝利したトルコドイツイギリス双方からの参戦誘い断り続けた後、大戦末期1945年2月形式的に連合国側参戦ギリシャ並び戦後東地中海における西側諸国中核を担うことになった

※この「バルカン半島の「解放」」の解説は、「バルカン戦線」の解説の一部です。
「バルカン半島の「解放」」を含む「バルカン戦線」の記事については、「バルカン戦線」の概要を参照ください。

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