バルカン半島での勝利、教会合同とは? わかりやすく解説

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バルカン半島での勝利、教会合同

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/26 03:16 UTC 版)

カロヤン・アセン」の記事における「バルカン半島での勝利、教会合同」の解説

カロヤン兄たちが採った反東ローマ政策引き継ぎアセン1世暗殺した後に東ローマ亡命しプロヴディフ統治していた従兄弟イヴァンコ(英語版)と同盟を結ぶ。ブルガリア帝国から離反してストルミツァ独立したドブロミル・フリスとも手を結びトラキア地方のコンスタンティア(現在のハスコヴォ州位置する)を占領した1201年に北ブルガリア最後東ローマ領であるヴァルナ制圧し、翌1202年にはマケドニア大部分ブルガリア影響下に置いた1202年ハンガリー王イムレ1世ブルガリア進攻し、当時ブルガリア領だったベオグラード、ブラニチェヴォ、ニシュ占領した1203年ブルガリアベオグラードとブラニチェヴォを奪還するが、教皇インノケンティウス3世争い仲裁するまで、ブルガリアハンガリー対立続いた1199年ごろから、インノケンティウス3世カロヤンローマ教会ブルガリア正教会合同説く書簡出していた。カロヤン皇帝称号獲得第一次ブルガリア帝国時代栄光取り戻すことを求めて1202年からローマ積極的な交渉行った。この政治的な取引では、カロヤンインノケンティウス3世戴冠シメオン1世サムイル所持していたものと同じ王笏授与要求し見返りとしてローマ教会との関係の改善ブルガリア正教会ローマ教皇権威認めることを提案したインノケンティウス3世譲歩渋るが、結局1204年秋に枢機卿レオ教皇からの使節としてタルノヴォ訪れタルノヴォ大主教ヴァシリー首座大司教称号授与された。同時にカロヤンには王冠王笏、旗が与えられ、「ブルガリアワラキアの王」として戴冠される。カロヤン皇帝称号認められたとみなしてブルガリア人ワラキア人皇帝」を自称し教皇感謝の意表した書簡送ったまた、書簡では取り決めに従ってローマ倣った儀式を行う保証もされた。 一方で東ローマ皇帝アレクシオス3世ブルガリアとの関係を改善するため、カロヤン皇帝称号支配権承認する

※この「バルカン半島での勝利、教会合同」の解説は、「カロヤン・アセン」の解説の一部です。
「バルカン半島での勝利、教会合同」を含む「カロヤン・アセン」の記事については、「カロヤン・アセン」の概要を参照ください。

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